福島県南相馬の現実

 先週末は、八王子市の「子ども支援アンアンネット」が主催したボラバス(バスによるボランティアツアー)に参加し、南相馬市に行ってきました。
 大震災から3カ月、かねて被災地でのボランティア活動に参加したいと思っていながら、体力に自信もなく踏み切れなかったところ、リーダーの吉永鴻一さんに相談すると、シニアでもできる作業は一杯あるからと背中を押され、せっかくのチャンスなのに行かないと却って後悔するかも、と思い決心して参加しました。
 24日(金)22:30に八王子を出発、明け方に鹿島地区川子にあるベースキャンプ着。小雨に煙っています。

畳敷きの快適なテントで仮眠した後8:30に出発。生憎の雨模様で、予定していた屋外での泥出し作業は中止。仲町児童センターでの写真等の洗浄作業に携わりました。
児童センターの隣家は避難して無人なのか、人参の花とネギ坊主が目立ちます。

 津波に流されて泥まみれになったアルバムから、写真を一枚ずつ剥がし、ウェットティッシュ等で汚れを落とす作業なのですが、水につかっていた写真は、慎重に扱わないと、アルバムのフィルムを外すと画像そのものが崩れてしまいます。
 多くは家族の写真。
 この日、最後に扱った赤い表紙のアルバムは、一人の女の子の誕生から、七五三、海水浴、運動会、ピアノの発表会、最後は高校の九州への修学旅行で友達とまくら投げしている写真で終わっていました。
 ここに写っているご本人、ご家族、お友達は、果たして無事でおられるのかと思うと、何とも胸が詰まるような気持ちになります。庭に貼られたテントの下に洗濯バサミで並べて干しながら、無事に持ち主の手元に戻ることを祈らずにはいられませんでした。

作業終了後の夕方、バスで津波の被災地を巡回。

 被災した無人の真野小学校の校庭は、泥とがれきに覆われ、敷地脇の水田には多くの漁船が放置されたままです。

震災から3カ月が経っているにも関わらず、です。

 さらに海岸に向かうと、あちらこちらに市内から集められたがれきが集積されて山となっており、住宅は基礎だけ残して全く建物は残っていません。

真新しい鳥居の竣工碑が横倒しになっていました。碑面には船と所有者の名前。恐らくこの地に、海の守り神の神社があったのでしょう。今は鳥居も社も、跡形さえありません。
 道路脇の水田は、今も多くは一面水に浸かっており、乾きかけた所には一面のひび割れが。
 農地として復旧・復興するには相当の苦難が予想されます。

川子集会場での夕食には、地元の消防団の皆さんも参加して下さいました。

震災当日から現在までの生々しい体験談。

地域の顔見知りの人たちが目の前で波に飲まれていくを何もできなかったという話、道路が寸断され遺体を10kmも背負って運んだ話など。言葉がありません。

 それでも、自分の息子が学校の算盤塾に行っていることを忘れたまま住民の避難誘導に走り回り、後で思い出して顔面が蒼白になったという話(幸い避難して無事だったのこと)、指揮命令系統が壊滅したため一旦消防団は解散になったのに「ハイパー消防団」と自称して地域での活動を継続してきた話等をお聞きし、非常時における使命感の崇高さに心を打たれました。
 食事の後は集会所横のテントに移動し、遅くまで歓談させて頂きました。
 皆さん明るく賑やかに振舞っておられましたが、わずか3か月前に大変な震災を経験され、その危機的な状況との闘いは、現在も続いているのです。
 ところで、今回のボラバスの受け入れ窓口になってくれたのは、この時のハイパー消防団の皆さんもメンバーになっている「南相馬桜援隊」という組織。

名前の由来は、南相馬市の一部は原発から20~30km圏内にあるため屋内待避命令が出されていて花見ができなかったとのこと。来年こそは盛大に花見をしよう、という想いを込めているとのことです。

翌26日(日)は4時半頃に目が覚めてしまいました。
テントを出ると既に明るく、雲は低いものの雨も降っていなかったので、近くの被災地を改めて自分の足で歩いてみました。キャンプ地に近い鹿島区大内という地域です。

 まず国道6号線脇の水田の中に、ひと際目立つ船。外見上は大きな損傷もなく、海に浮かべればそのまま使えそうにも見えるのですが、陸の上の傾いた船は何とも異様な光景です。
 看板は、根本から鉄骨が大きく曲がって倒されています。
 水田の間の農道を海に向かって歩いてみました。
 がれきは、かなり片づけられたそうですが、それでも津波の爪痕が生々しく残されています。
 電柱は根本から大きく曲がって立っているもの、完全に折り曲がっているものも。
 自動車の車体の、正面部分のみが残されていました。
  さらには、原形をとどめないほど大破した軽トラックも。
 数歩歩くごとに手を合わさざるを得ません。
 集落に入ると、家々にも大きな被害が。
 消防分署と思われる建物は大破、倉庫は流されて水田の中、車庫は基礎しか残っていません。
 民家は1階を中心に大破した建物が多く見られます。
  大破した農器具庫の前には、やはり大破した田植え機が放置されていました。
 水田そのものも大きな被害を受けており、さらに原発事故のために水稲の作付が制限されているこの地域において、漁網がからまり泥にまみれた田植え機の姿に、言葉を失います。
 ベースキャンプに戻る途中、道端の花が綺麗だったので写真を撮っていると、梨の摘果作業をされていた農家の女性の方に声をかけて頂き、少し雑談させて頂きました。
 亡くなられたご主人から引き継いだ梨園を大事に手入れし、直売等が軌道に乗りかけていたのに、今年は震災で整枝や剪定作業が遅れ、それでも現在は摘果作業を急いでいるものの、果たして収穫できても放射能の影響で出荷できるかどうか分からない、とのことです。
 お名前を伺うと、何と昨夜話を伺った消防団のUさんのご祖母様とのこと。Uさんには帰京後、梨ができたらぜひ送って下さい、と注文しておきました。
 秋には美味しい梨が食べられる楽しみができました。
 ベースキャンプに戻ると、地元の小学5年生の女の子が遊びに来ていました。ボランティアの女性たちと仲良しだそうです。
「宝物のような果物」という意味の、福島らしい名前を持つ女の子は、友達と植えたひまわりの苗が大きくなったと嬉しそうに見せてくれ、支援物資の中にあったらしいシャボン玉のおもちゃで無心に遊んでいました。
明るく元気で人懐っこく、しかも言葉づかいは丁寧で、親御さんがしっかりと育ててこられたことが分かります。
 宮沢賢治と金子みすゞと、テレビアニメ「けいおん!」が好きな彼女の自宅は30km圏内にあるため、屋外で遊べないそうです。
 学校は閉鎖されて30km圏外の別の学校に通っていること、その学校は教室が増えたため図書室が閉鎖されて本が借りられないこと、そもそも友達もたくさん避難して少なくなってしまったこと等を、明るく、話してくれました。
 一体どうしてこの子は、このような目に合わなければいけないのでしょうか。
 この日も結局雨になり、屋外の作業は中止。
 まずは原町第1小学校の体育館に開設されている避難所を訪問しました。学生たちは、昨日から続いてのメンバーもいて、自然に住民の皆さんと溶け込み、楽しく歓談したり、マッサージをしたりしています。ウクレレが特技の中学校の先生は、多くの人と歌を歌って盛り上げます。
 私は何をしていいか分からなかったのが、吉永さんから、整体師のIさんの手伝いを命じられ、順番に合わせて次の方を誘導してくる、といった役目を仰せつかりました。
 避難所の皆さんも表面上は明るい方が多いのですが、Iさんによると、やはり相当ストレスで体が硬くなっているとのことです。
 校庭には立派な3本のケヤキの木が。それぞれ「元気のケヤキ」「本気のケヤキ」「根気のケヤキ」と看板が立てられています。
 その後は昨日の写真洗浄を少しして、午前中で作業は終了です。
 昨日と同様、ビジネスホテルの温泉に入り、道の駅で食事と買い物。
 南相馬市は、一部が原発から20~30km圏内にあることからボランティアも少ないそうですが、それでも町は思った以上の活気を維持しています。閉鎖していた商店や飲食店の多くも、GW前後から再開したところが多いそうです。
 街中には、「人間復興 ふるさと再生 “ありがとう”からはじめよう」との幟。
 コンビニや道の駅には、「自衛隊・警察・ボランティアの皆さん ありがとうございます 御身体大切にして下さい」との張り紙も。
 南相馬は厳しい状況は続きますが、決して暗く沈んでいるばかりではありません。
7月23~25日には、伝統の「相馬野馬追」も開催されます。
 14時にバスは出発。
 二本松ICに向かう途中、飯舘村を通りました。こちらは計画的避難区域に指定されているため、人の姿は見られません。既に機能は移転した役場の建物も閑散としていました。
 そして作付制限されている水田は、水も張られておらず、一面耕作放棄地のような光景が拡がっています。
 こちらは、さらに厳しい状況に置かれています。
 バスは20時過ぎに八王子駅前に帰着。
 正味1日半、しかも屋外のきつい作業もなかったボランティア初体験でしたが、それでも私にとっては大変意義のあるものでした。
 理解できたことは、現地に行かなければ分からないこともあるということ、それにボランティアはまだまだ不足しているということ。
 それに、吉永さん始め、同行させて頂いた40名の参加者の皆様と、今後につながる色々な関係ができたことも、大きな財産となりました。
 東京は夏を迎え、あたかも節電が最大の問題のように捉えられるようになっていますが、被災地のこととつながっているという想いを、持ち続けて行きたいと思います。