社会と向き合い「分かち合う」こと

 今年のGWは、故郷の徳島から叔母が上京して来られたり、久しぶりに従兄(といっても1回り違い家庭教師などもして頂いた方)夫妻が来て下さったりして、特段、遠出はしませんでしたが、それなりに充実。
 5月5日の端午の節句は、ようやく晴天に恵まれました。
 立夏らしく気温も上がり、緑風が爽やかな一日。近所には真っ白い大手毬やピンクの花水木。団地の中を流れる小川では水遊びする子どもも。
 
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 ところで今年は、何度か連続して更新できてきた市民農園の抽選にとうとう外れ、猫の額だったとはいえ大事な食料生産基盤を失ってしまいました。
 仕方なく、ベランダにプランターを並べてトマト、きゅうり、茄子。鼠の額のような庭をほじくり返してゴーヤと枝豆の苗を植えてみました。隣家との間隔が狭く日当たりが良くないので、果たしてどうなることやら。
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 そのような中、心に残った本の感想を、覚え書き的に残しておきます。
+hon1_convert_20120506092355.png 1冊目は神野直彦さん『「分かちあい」の経済学』(2010、岩波新書)。
 目の不自由な神野さんは1946年生れの東京大名誉教授で地方財政審議会会長。
 スウェーデン語で社会サービスのことを「オムソーリomsorg」というそうです。その元々の意味は「悲しみの分かち合い」。
 その「分かち合い」にこそ、現在の日本の危機を乗り越える鍵があるというのが神野先生の主張です。
 日本社会は、新自由主義の「失業と飢餓の恐怖なくして成長なし」とのスローガンの下、「分かち合う」べき幸福を「奪い合って」いる現状。そもそも「所有する貨幣量に応じて権利の大きさが決定される、豊かな者が決定権を握る」市場経済は、民主主義(一人一票)と相反しているとのこと。
 そして、非正規従業員を含めて平等を実現するためには、働く者による労働の成果の「分かち合い」が必要と説かれているのです。
 以上のように、神野先生の論調は、市場原理に対する強い懐疑に彩られているように思われました。
+hon2_convert_20120506092414.png 2冊目は齊藤誠先生『競争の作法』(2010、ちくま新書)。1960年生まれの一橋大学教授でマクロ経済学がご専門です。
 2008年のリーマンショック後、経済理論どおりに調整していく強靭な市場を「美しいとさえ表現したかった」という齊藤先生、ここ10年ほどは「競争原理が諸悪の根源とされ、競争をさげすむ風潮がはびこったことに、やるせない日々が続いていた」そうですので、神野先生とは対照的に、市場経済を強く信奉されている方のようです。
 その齊藤先生、マクロ経済データを詳細に分析した上で、日本経済の現状を「競争原理を実践するはるか手前のところで、少数に対して悲惨な貧困を押しつけた多数が安堵していた状態」と断じています。
 つまり、競争自体は「良いも悪いもない」ことであるにも関わらず、それが日本ではまだまだ不十分(あるいは「大きく踏み外していた」)というのです。
 その上で、「思い切った生産コスト削減と生産性向上は、一人一人の個人が自分自身の現場で競争原理に真正面から向き合うことでしか実現できない」、「競争原理に向き合うということは、決して自己中心的になることではない。他者を尊重して自分自身の中にある保身と嫉妬の心情を抑え込み、新しい生き方を考える契機として競争と前向きにつきあっていくこと」と主張されています。
 要するに、「経済全体の労働コストの圧縮分のほとんどを引き受けさせられ、生活が悲惨さをきわめた少数の他者」に配慮し、自らの給与の減額を受け入れられるか、と問いかけておられるのです。
 そして「競争と真摯に向き合い、早く帰宅をして、市民活動を充実させよう」と。
 この結論は、理解が不十分なところもあるかと思いますが、神野先生の「分かち合い」に相通ずるところがあると感じました。
 市場そのものに対する見方は、かなり離れたお立場にあると思われる2人が、似た(ように見える)結論に到達されていることに、少々の驚き(感動)さえ覚えた次第です。
 ただ考えてみれば、そもそも新自由主義とか反市場とか、二項対立的に捉えること自体、間違っているのかも知れません。神野先生も、競争原理に基づく市場経済と「分かち合い」の領域との適切なバランスとることが必要とされています。
 一方、そもそも貨幣を介在させない「贈与」に注目しているのが、文化人類学者の中沢新一さんです。
 『純粋な自然の贈与』(2009、講談社学術文庫)においては、そのことを分かりやすく理解するため、ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』が紹介されていました。+hon3_convert_20120506092433.png
 冷酷な守銭奴のスクルージ爺さんは、クリスマスの前日、寄付を募りに来た人に言い放ちます。「死にたいやつらは、かってに死なせたらいいさ。人間が多すぎるから、貧乏人などができて、うるさくてしようがない」(村岡花子訳、1994、河出書房新社)。
 しかし、クリスマスの夜に現れた幽霊たちに、過去、現在、そして未来の悲惨な自分の姿を見せられ、改しゅんし、他人に対する無償の思いやりや施し(贈与)の重要性に目覚めるというストーリーです。
 スクルージ爺さんは、誰の心の中にも住んでいます。
 真摯に社会に向き合い、他者に配慮し、幸福と痛みを「分かち合う」ことができるかどうかが、私たちに問われているのだと思います。
+tuki_convert_20120506092453.png 5日夜、空にはスーパームーン。
 そして、42年ぶりに日本の原発稼働がゼロになりました。
 運転こそ止まりましたが、当然ながら、膨大な量の核燃料物質も、廃棄物も、そして福島第一から放出された(ている)放射性物質も、消えて無くなったわけではありません。
 原子力技術の維持のために原発の継続が必要という議論がありますが、安全な事故の終息と将来に向けた管理のために、今こそ、原子力専門家の知識と技術が必要となっていると思うのですが、いかがでしょうか。