失われた故郷からいのちを問う-早川住職(福島・植葉町)のお話

 2016年も9月に入りました。早いものです。
 連続する台風接近もあり不順な天候が続きます。北日本では人命だけではなく、農作物 にも大きな被害が出ています。
 9月3日(土)は、久しぶりの晴れ間。
 午前中、自宅近くに借りている市民農園の一画へ。せいぜい週1回位しか来られませんが、土に触れるとほっとします。
 多くの果実を恵んでくれたトマト(近くのJA直売所で求めてきたアイコ)はそろそろ終了。多くは実が割れたり虫食いがあったりして、収穫しないままに天然のドライフルーツに。
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 お花畑の様相。
 福島・広野町由来のコットンに沖縄島オクラ。本当によく似ていますが、よく見ると花の中心部にある雌しべの形が違うことを発見。
 トマトと違ってナスは、まだまだ花をつけてくれています。東京・檜原村由来のゴマには、船のような形の薄いピンクの花。
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 蕎麦(たぶん山梨・上野原市西原由来)も満開。ハナアブ、ヤマトシジミ、 イチモンジセセリ等のお客様。
 おっと、キュウリ(新潟・上越市大賀由来)はウリハムシの天国に(これは害虫!)。
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 午後から本駒込へ。
 JR駒込駅から六義園に沿って20分ほど歩くと、右側にあるのが定泉寺。ここで16時から開催されたのは「失われた故郷からいのちを問う~福島県植葉町の早川住職に聞く~」と題する講演会です。
 50名ほどの老若男女が集まっています。
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 呼びかけ人の大河内秀人さん(浄土宗見樹院 住職)の進行で開会。
 同じく呼びかけ人の本田徹さん(認定NPO法人シェア=国際保健協力市民の会代表)から、
 「2012年から、いわき市福島労災病院で週1回勤務。早川篤雄さんの話を何度か話を伺う機会があり、今の日本にとって、特に福島の電力の受益者でもある東京の人間にとって大切な話と思い、これからの世代のために進むべ き道について考えたいと思い、この講演会を企画した」等の挨拶。
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 紹介されて起立された早川篤雄さん(福島・楢葉町 宝鏡寺住職)は、地元で教職を務めながら、長年にわたり反公害・反原発の運動を続けてこられた経歴をお持ちの方ですが、飄々とした風貌で話し始められました(以下、文責は中田にあります)。
 「東京の人には想像もできないような山の中の、600年続いている寺で生まれ育った。その長く続いてきた命の営みが、私の代で断たれようとしている」
 「自分は1939(昭和14)年の生まれ、戦中生まれの戦後育ち。もともと寺の住職だけでは生計は立たず、祖父は表具師や鍼灸師、祖母は行商をしていた。父は役場職員、母は一年中、畑の中で前屈みになり、現金収入のために牛を飼っていたこともある。  そのようななかで東京の大学に行かせてもらい、1962年に卒業して教職に就き、77年には30代目の住職を継いだ」
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 「1971年3月26日を境に私の人生が変わった。
 この日、福島第一原発1号機が営業運転を開始し、隣の広野町議会が火力発電所の誘致を決定。この頃は、四日市ぜん息などの公害裁判が各地で行われ、原発も試運転中から多くのトラブルがあったことから、まずは、亜硫酸ガスと原子力の専門家を呼んで勉強会を行うこととした。
 ところが講演会当日朝の新聞に『研究所としては何ら関与していない、肩書きも使わないように』等と書かれたチラシが入った。 住民の疑問、知ろうとしていることに答えようとする姿勢がなく、逆に邪魔をするとは、これはかえって怪しいと直感した」
 「当時の中曽根通産大臣に要請し、1973年9月18〜19日に全国初の公聴会が開催された。ところが陳述人40人のうち誘致賛成側が27人。傍聴もかなわなかった。東電の子会社社員等が大量に応募葉書を出したらしい。
 「1975年には第二原発訴設置許可取消訴訟を提起したが、84年には福島地裁、90年には仙台高裁で棄却。この間、スリーマイル島(79年)、チェルノブイリ(86年)で事故が起こったにも拘わらず安全は確保されているとして92年には最高裁で国側勝訴が確定。不当判決と言わざるを得ない」
 「10月25日の原子力の日には、新聞に「エネルギー・アレルギー」という科学技術庁の全面広告(ヌード写真)が入り、電柱には『原発建設を促進し豊かな地方を開いていこう』等の多数の貼り紙が貼られた」
 証拠の品を掲げて見せて下さいました。
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 「1987年には「原発問題住民運動全国連絡センター」(原住連)が結成され、津波に対する安全性確保についての申入れ等を行った。施設は水密性が確保されているから大丈夫というのが当時の回答だったが、311の現実はどうだったか」
 「結局、地域住民は二の次。
 1998年の原子力白書には、「国民の原子力に対する不安感、不信感の背景には、技術的『安全』と意識としての『安心』の垂離」があると分析しているが、これは国民は無知だと言っているのに等しいのでは」
 「昨年9月に避難指示が解除された植葉町だが、帰還した住民は現在でも1割未満。帰ってきたのは、自分で自動車が運転できる高齢者だけ。
 福島復興特措法第二条には「安心して暮らし、子どもを生み、育てることができる環境を実現する」とある。自分たちには間に合わなくてもいい。次に続く世代のために、この通りにやってほしい」
 「ところが実際には、除染廃棄物を入れたフレコンバッグは置かれたままで、中間貯蔵施設への移送の目処は立っていない。そもそも、『中間』の先はどこへ持っていく というのか。 若い世代は危険があることを直感で分かっているから帰ってこない。一方で自分たち高齢者が亡くなっていけば、この町は30年後には地図から消える」
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 ご自身の被ばくデータも見せて下さいました。
 「これまで『原発大事故、つぎはニッポン』というパンフを作って訴えてきた。それが無視され続け、311でその通りの結果となってしまった。そして現在、事故原因の究明も十分されないままで再稼働が進められている。 原発政策は変わっていない。このままでは『原発大事故、つぎもニッポン』になりかねない。
 しかし、どんなことがあっても、もう一度事故を起こしてはならない。諦めたら終わり。世論に訴えていくしかない」
 講演会は18時過ぎに終了。
 紹介頂いた原住連の機関紙の購読を申し込みながら、ご挨拶をさせて頂きました。
 このような長い期間にわたって原発反対運動を続けて来られた方の話を実際に伺ったのは、初めての経験でした。頭が下がります。一方で、その運動が世論を変えることができなかったことも事実です。
 深刻な、時には絶望的にも思われるこの日の早川住職のお話を、私は残暑の東京で、エアコンが効いた快適な部屋で、冷たいペットボトルのお茶を頂きながら伺ったのです。
 話が進むに連れ、何ともいえない不快感を覚えざるをえませんでした。後ろめたさかもしれません。市民農園での土いじりなんか楽しんでいるとは、何と平和なことでしょうか。
 「復興五輪」という言葉に早川住職は強い不快感を示されていたことは、私たち東京に住む人間に対するメッセージと受け取りました。 
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 多くの原発訴訟に関わった弁護士・海渡雄一さんの『原発訴訟』には、次のようなくだりがあります。
 「原発訴訟の多くは非常に長い時間がかかっており、文字通り、原告と弁護団の人生を賭けた戦いだった」
 「日本の政治経済システムに埋め込まれている強固な原子力推進システムを変えることは容易ではない。しかし、政策の変更の基礎は市民の意識の変化であり、その第一歩は、私たち一人一人がフクシマを忘れず、被災者の救済を求め続けることを固く決意することである」
 原発事故から、間もなく5年半の節目を迎えます。
 【ご参考】
◆ ウェブサイト:フード・マイレージ資料室
 (プロバイダ側の都合で1月12日以降更新できなくなっていることから、現在、移行作業を検討中です。)
◆ メルマガ :【F. M. Letter】フード・マイレージ資料室 通信
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