【ブログ】ぶらり比企の歴史旅

2017年12月10日(土)は快晴。
 自宅近くに一画を借りている市民農園。大蔵大根など冬野菜が今年も豊作です。品川カブは、品評会に出せるでしょうか。

翌10日(日)午前10時。
 日射しの眩しい青空の下、東武東上線・高坂駅(東松山市)東口には5人の怪しい(?)オジサンの姿。比企ツーリズム(歴史)「鎌倉御家人ゆかりの地を訪ねて」参加者の面々です。
前回(10月15日)は大田道灌ゆかりの越生をめぐりました。)

主催者であるECOM(NPOエコ・コミュニケーションセンター)の森良さんからの挨拶に続き、ガイド役の山本正史さん(まつやま書房)が資料を配り簡単に行程等を説明して下さった後、颯爽とワゴン車に乗り込みました。
 今回も森さんが自らハンドルを取られます。

まずは車で10分ほどの小代(しょうだい)地区の青蓮寺へ。

境内の小さなお堂に納められているのは、立派な青石(緑泥片岩)の板碑です。
 説明板には「弘安四年銘板石塔婆」とあり、小代氏四代目・重俊の仁徳を募い、また祖先の供養のために、弘安四年(1281)年に関係者によって建立されたものとのこと。

小代氏は武蔵七党・児玉党の流れをくむ鎌倉幕府の有力御家人で、蒙古襲来に備えて一族の多くは地頭職を務めていた肥後国野原荘(現在の熊本・荒尾市)に下向したそうです。

ちなみにその後の小代氏は九州の戦国時代を生き抜き、肥後熊本藩(加藤氏、細川氏)に仕えて明治を迎えました。なお、大相撲の正代関(熊本・宇土市出身)も一族とのようです。

この辺り、小代(小台)という地名の通り丘陵地になっています。石段の上から東方を望むと水田など広々とした平坦地が拡がっています(冬の日射しが眩しい!)。
 石段を降りたところには清水が湧いており、水路には多くの鯉が泳いでいました。

隣接する御霊神社へ。
 小ぶりでわびしさを感じさせる境内です。夏に行われる祭りばやしの説明版は1987年に立てられたものです(今も続いているのかな)。

曲がりくねった細い道をしばし散策。道端にはお地蔵様。花が供えられています。
 10分ほど歩いて世明寿寺へ。「ご自由にどうぞ」とハヤトウリ、柚子、キウィフルーツが並べられていました。

青蓮寺からこの辺りまで小代氏の館跡だったそうで、土塁や堀の遺構が確認されているそうです。かなりの広さです。
 行き合った地元の方と立ち話。伺ってみると御霊神社の夏祭りは今も続いているとのこと(法事に向かう途中に足を留めさせ、失礼しました)。

車に戻り、県道467号を北上。野本地区に向かいます。
 平野の中に見えてきたこんもりとした林が、将軍塚古墳です。
 埼玉県には多くの古墳が残っていますが、ここは屈指の規模の前方後円墳とのことで、近くから見上げるとその大きさに圧倒されます。

鳥居をくぐって登っていくと、深山の趣きさえあります。
 後円部の頂には藤原利仁神社が鎮座していました。
 藤原利仁は西暦900年前後に関東に国司として赴任した人物。その名前は今昔物語にも登場するそうです。

この古墳は本年11月に地中レーダー等による調査が行われ、築造は古墳時代前期の四世紀後半であること、埋葬施設は未発掘であることが新たに判明したそうです。
 この日午後、隣接する市民センターで講演会が予定されていました(講演会に参加される方が何人も古墳を歩いておられ、すかさず森さんがチラシを渡されていました)。

北隣にある無量寿寺は鎌倉武士・野本氏の館祉です。裏手にははっきりと土塁の遺構が確認できます。

正午近くになり、昼食は「田園」へ。
 お米や野菜などは地元産にこだわっているそうで、地場産小麦を使ったうどんが入った定食を頂きました(オジサン達はなぜか、全員、同じものを注文)。

JA直売場「いなほてらす」の立派な建物を横目に見つつ、東上線の線路を渡って西部の岩殿地区へ。
 懐かしいような里山の光景。この辺りに足利基氏(尊氏の子、鎌倉公方の祖)の塁があったところだそうです。

阿弥陀堂だったという建物の脇に車を止め、墓地の斜面を少し登ったところに大きな青石の板碑がありました。
 説明板によると(アルミの説明版は読みづらい!)、真言密教の布教を願って応安元年(1368)に建てられたもので、高さは2.6メートルもあるそうです。

眼下に見えるのが弁天沼。
 中の島の小さな洞に向けて赤い橋が架けられています。周囲を流れる小さな川は曲げられており、仏教庭園だったとされています。
 坂上田村麻呂に退治された悪龍の首が埋められているためにカエルが棲みつかないという伝説から、「鳴かずの池」とも呼ばれているそうです。

惣門橋を渡ると、岩殿正法寺に向かって参道が伸びています。まーっすぐの緩やかな上り坂です。
 江戸時代は門前町として宿坊、宿屋、商店等が並び賑わっていたそうですが、現在は畑などもあるのどかな光景です。
 一軒ごとに立てられている屋号を記した大きな木の表札が、往事を偲ばせてくれます。

参道から脇にそれて石段を登る中腹に、小さな祠がありました。源義賢(木曽義仲の父)の絵馬が掲げられています(山本さん、興奮!)。

さらに昇ると、判官塚がありました。
 頼朝を支えた比企判官能員(よしかず)を祭ったもので、大東文化大のキャンパス造成に伴ってこの地に遷されたとのこと。

参道に戻りさらに進むと、やがて仁王門に到りました。
 その手前に古い建物が残っています。丁子屋という有名な旅館だったそうで、いい雰囲気の建物です。向かいの料理屋も、今は営業していません。

仁王門は近年改修されたそうで、仁王様も赤い肌がリフレッシュ。
 さらに、ふうふうと石段を登り、ようやく正法寺の境内に到着(オジサンは息が切れました)。

崖際に、元亨二年(1322)年に鋳造されたという胴鐘と鐘楼がありました。
 眼下に歩いてきた参道と門前町の町並み、さらにその向こう側には比企の山々が望めます。

正法寺観音堂は養老年間(717~724)に創立、比企能員が復興させたと伝えられる古刹で、坂東三十三番札所の第十番霊場です。

岩殿観音と呼ばれている通り、岩肌をくり抜くように観音堂が鎮座しています。

観音堂の脇には見事なイチョウの巨木。落葉が地面を黄金色に染めていました。

さらに坂道を徒歩15分ほどで、物見山の展望台に到着(ふうふう)。
 東から北の方角にかけて眺望が拡がり、さいたま新都心の高層ビル群も見えます。もっと空気が澄んでいれば、筑波山や日光連山も望めそうです。

帰りは観音堂から女坂を降りて参道を戻り、車を停めてあった弁天池脇の駐車場へ。
 地域の方達が整備されている花壇もありました。

この日、森さんの万歩計は 1万1千歩を記録していたようです(石段や山道もあり、この日はスポーツクラブを兼ねていました)。

高坂駅西口まで送って下さり15時過ぎに解散。風もなく暖かく、歴史ぶらり旅には最高の一日でした。
 森さん、山本さん、参加された皆様、有難うございました。

なお、次回は明年2月頃に予定されているそうです。

注:本稿の執筆にあたっては、岡田潔『東松山の地名と歴史』(2010.7、まつやま書房)を参考にさせて頂きました。