【豆知識】米収穫量の長期推移


 今年は明治150年。150年前に近代国家としての歩みを始めた日本ですが、その半ば以上は食糧が十分に供給された時代ではありませんでした。

1918(大正7)年に富山県から始まった米騒動は、瞬く間に全国に広がり、社会に大きな影響を与えました。
 また、太平洋戦争の戦中・戦後は深刻な食糧不足に直面し、多数の銭死者を出すとともに、子どもの成長にも大きな悪影響を及ぼしました(このことについては前号で紹介)。
 国民に食糧を安定的に供給することが、国家の最重要課題だった時代が長く続いたのです。

食糧の中心には、一貫して米が位置づけられていました(異論もありますが)。
 その水稲の収穫量の長期的な推移を示したものが、リンク先の図104 です。
 http://food-mileage.jp/wp-content/uploads/2018/08/104_kome.pdf

統計が残っている最も古い 1883(明治16)年の水稲の収穫量は 457万トンで、作付面積は 257万ha、単収(10a当たり収量)は 178kgでした。
 この収穫量が、米騒動が発生した1918(大正7)年には 802万トンと 1.8倍(作付面積は 1.1倍、単収は 1.5倍)へと増加、さらに戦前において最も収穫量が多かった1933(昭和8)年には 1,044万トンと 2.3倍(同 1.2倍、1.9倍)へと増加し、初めて1千万トンの大台に乗りました。
 この間の収穫量の増加は、主に単収の増加によって実現していたことがグラフから読み取れます。

もっとも米は自給できていたわけではなく、朝鮮や台湾からの輸入(移入)米に依存していましたが、これも戦況の悪化に伴い、円滑な輸送ができなくなってきました。

ところが、右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます。これは、農業を担っていた男性の多くが軍に徴用されて戦地に送られ、肥料等の生産資材も不足を来 していたためです。
 このように、太平洋戦争は日本の米生産(生産力、生産基盤)にも大きな影響を及ぼしたのです。

ちなみに戦後に入ると米の収穫量は大幅に増大し、1967(昭和42)年には 1,426万トンを記録しました。
 しかし、次第に生産過剰基調が明らかとなってきたため、70年代からは生産調整(減反)が実施されるようになり、収穫量は減少していきます。

[参考]
 農林水産省「作物統計調査」(収穫量累年統計、水稲、全国)
  https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001024932&cycle=0&layout=datalist
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出典:フード・マイレージ資料室通信 No.150
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