【ブログ】石戸諭さん「3.11からの8年を生きる」

2019年3月23日(土)。
 郷里・徳島の農家の友人から旬のニンジンが届きました。
 彩誉(あやほまれ)という品種だそうです。レシピ付き。早速、ジュースにして頂きました。何とも香り高く、甘くて美味!

翌週の27日(水)に職場で開かれた送別会(年度末です。)にも、スティックにして出させて頂きました。
 生のまま切っただけですが、好評でした。

美味しいニンジンを有難うございました。

さて、3月24日(日)の午後は東京・渋谷区へ。
 京王・幡ヶ谷駅で下車し、緑道公園(下には玉川上水が流れているそうです。)を歩きます。桜が綻んでいます。

5分ほどでイネコヨガスタジオに到着。
 日光が入る明るい地下のスペースに案内されました。

ここで16時から開催されたのは、ノンフィクションライター・石戸諭(いしど・さとる)さんの講演会。
 テーマは「3.11 からの8年を生きる-私達はこの大震災をどう次世代に伝えていくのか? どう向き合うのか?」です。

石戸さんは1984年東京都生まれ。
 毎日新聞社、ネットメディアの BuzzFeed Japan を経て2018年4月に独立。
 2017年に出版された『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)は、ほとんどの全国紙に書評が掲載されるなど、高く評価されています。

定刻前にリュックを背負った石戸さんが到着。
 この日の参加者は全体で10名未満と、アットホームな雰囲気です。

主催者の本間敏雅さんからの挨拶。
 復興支援のウェブサイトを運営されている方で、以前に福島関連のイベントで名刺交換したことがあり、今回もメールで案内頂いていました。

石戸さんの話が始まりました(なお、文責は全て中田にあります)。

「昨年からフリーランスに。現在はフォーブスやニューズウィークといった雑誌に寄稿したり、ラジオやテレビ地上波に出演したりしている」

「3.11の時は新聞社の岡山支局に勤務、5月には大阪本社社会部への異動が決まっていた。
 被災地を取材したいと申し出て、3月21日に岩手県沿岸部に入った。そこで街が、文字通り、すっかり無くなっている惨状を目の当たりにして、これは書けないと思った」

「避難している人にインタビューすれば、それなりの記事にまとめることはできる。しかし、そのような伝え方でいいのか疑問を持った。
 2週間弱、丁寧に話を聞きながらびっしりとメモを取ったが、ほとんど記事にはできなかった。
 新聞というメディアは優先順位が問われる。大切な人を喪うという個的な体験から出た言葉は、短い字数の新聞記事では書き切れなかった」

「その自分の気持ちに決着をつけいという思いがずっとあった。2016年1月にネットメディアに移籍した後、ノンフィクションの手法で本で書いていこうと思った」

「現場で伺った話の多くは、どちらかと言えば些細なシンプルな内容。
 2011年に収穫した米を、自分の子どもには食べさせられないと捨てた米農家の人は、先祖代々の土地を子孫に受け継ぐという亡き義父との約束を果たすという責任感から、汚染マップ作りを始めた」

「小学生の娘が津波の犠牲となり、自分で捜索して遺体を見つけた父親は、今もミニバスケットのゴールやボールを残しているという。
 彼らの気持ちに共感はできるが、完全に理解することは無理。しかし、分かろうとすることで自分の中にも変化が生じる」

「津波の被災地では、幽霊を見たという経験談もたくさんあった。これは新聞には載りにくい話だが、実は科学的に正しいかどうかは些末なこと」

「家族が行方不明のままの人も多かった。信じられない、なぜ自分は生きているのかといった宙ぶらりんな割り切れない気持ちが、幽霊を見たという話に仮託されているのではないか。
 遠野物語にも津波で亡くなった妻と出会う話がある。珍しい話ではない」

「語り継ぐべきことは、大量の悲惨なエピソードばかりではない。
 1人ひとりの個的な被災経験をどのように言語化するか。内面までしっかり描写するためには字数も必要」

「不条理な喪失体験を有している人たちは、話しているうちに分からなくなったり、話が変わってしまうこともある。言葉も感情も揺れる。
 それを第三者に話すことで言語化される場合もある。個的なことに接近し、徹底的に書くことで、普遍的な大量の喪失経験に思いを馳せることができるのではないか」

17時を回って質疑応答の時間に。
 「取材から本の執筆まで時間がかかった理由は。また、今後、メディアの主流は新聞からネットに移っていくのか」との質問には、

「新聞というメディアには長所も多い。新聞記者は場数を踏むことができ、文章化する訓練も受けられる。能力も高い。
 しかし、3.11後は仙台支局を始め記者も大変だった。仕事だからと割り切っていたが、心が傷つき、二度と被災地の取材はしたくないと言う記者もいた」

「新聞記者時代の自分は、津波で家族を失った人の感情といった、向き合うべき一番大事な重たいところに接近することができなかった。
 だから当時の記事はあまり読み返すことはない。新聞社を辞めなければ、本は書けなかっただろう」

「今後、特に力を入れたいテーマは」との問いには、

「特に自分では決めていない。依頼があれば色々なことに取り組んでいきたい。
 どんな分野にも、長く研究してきている専門家がいる。しかし世の中の99.9%は専門家ではない。その99.9%の人に向けて、問題の本質をきちんと伝えていきたい」等と答えられていました。

17時30分過ぎに講演会は終了。
 石戸さんは再びリュックを背負い、軽やかに駅の方向に歩いて行かれました。
 これから品川区天王洲で開催されているブラインドサッカー(視覚障害者による5人制サッカー)国際大会の取材に向かわれるそうです。

ますますご活躍に期待しています。