夏の会津・福島紀行(その1)

 2013年の夏休みは、福島県の会津・磐梯高原等を訪ねました。
 7月18日(木)朝9時台大宮発の東北新幹線は、夏休み前の平日、しかも各駅に停まる便だったせいか空いています。
 郡山からはレンタカーで磐越道を西へ。空模様がおかしくなってきました。
 猪苗代ICで降り、まずは湖にほど近い野口英世記念館へ。
 保存されている生家には、一歳半の時に落ちて火傷を負った囲炉裏、上京の際に床柱に刻んだ決意文「志を得ざれば再び此地を踏まず」も残されています。
 一方、隣接する資料館には、渡米中の野口博士に宛てた母・シカの手紙も。仮名書きのたどたどしい筆跡で「早く帰ってきてくれ」と、何と7度も繰り返されています。
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 湖畔の道路を会津盆地へ。
 まさに戊辰戦争の時の西軍主力の侵攻路です。十六橋や戸ノ口原といった戦跡の近くを通過していきます。
130718_2_convert_20130721081404.png 昼を過ぎたので、『まっぷる』に掲載されていたお蕎麦屋さんへ。住宅地の中にある隠れ家的な小さな店で、道路沿いには看板もなく、回りを一周しました。
 一番粉を使っているという白い蕎麦と、これも会津の名物らしいソースかつ丼のセットを頂きました。
 いよいよ会津若松の中心部へ。この頃から雨が強くなってきました。
 まず、迫りくる西軍を迎え撃つために、松平容保候が城を出て陣を布いたという「滝沢本陣」へ。
 たちまち殺到してきた西軍の猛攻に会い、容保は何とか城に戻ることができたとのこと。壁や柱には、多数の弾痕や刀傷が残されています。
 すぐ背後には、飯盛山が雨に煙っています。
 強い雨のために白虎隊の墓参はあきらめ、ふもとにある白虎隊伝承史学館を見学。おびただしい数の史料が展示されています。城下を離れた女性たちが残していった多くの鏡なども。
 実物のゲーベル銃を手にしてみると、その重さに驚きました。
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 お城近くの大河ドラマ館へ。
 砲弾や鉄砲の弾が飛んでくる籠城中のシーンに、自分自身の姿が投影されるというコーナーも。
 
130718_4_convert_20130721081520.png 会津若松城(鶴ヶ城)へ。
 ドラマや古写真の痛ましい姿ばかり見てきた身には、赤瓦をのせた白亜の天守閣が無事であることに(当たり前ですが)、ほっとした次第。
 この時だけは、美しい天守が映えるようにという天の配慮か、青空が拡がりました。
 南に下り、芦ノ牧温泉街へ。この日の宿は、部屋も露天風呂も、谷に面しています。
 テレビのニュースで、この日、東北各地で豪雨被害が出たことを知りました。さらに、宿からも遠くない住宅街に熊が現われ、3人が怪我をしたというニュースも。
 夕食。山塩というのも頂いてみました。会津は酒どころでもあります。
 この旅館、ロビーのテーブルのひとつひとつ、廊下にも各部屋の扉の外ごとに小さな花が飾られているなど、温かい気配りが感じられて気持ちのいい宿でした。
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 翌朝も降り続いていた雨は、ほどなく上がりました。
 「会津武家屋敷」へ。再現された会津藩家老・西郷頼母邸、移築された重要文化財の旧中畑陣屋、資料館等が並ぶ総合ミュージアムパークです。
 広大な頼母邸の周囲には、まだ紫陽花が満開で雨上がりに映えていました。復元された水車を使った精米所も。
 そして資料館には、頼母の家族が自刃したシーンのジオラマまで。会津戦争時には、多くの女性や子ども達が籠城して戦い、あるいは自害して果てたそうです。
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 昼は、若い人たちに人気の観光スポット・七日町通りへ。
 大きな商家だったという趣のある建物が、レストランや旅館として使われています。
 「こづゆ」「棒鱈」など郷土料理のコースを頂きました。壁には、古いビールの看板も残されています。
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130719_3_convert_20130721081922.png すぐ近くにある七日町駅は、小さな駅舎にカフェや小物を扱うショップやカフェが併設されています。
 何ともお洒落な、観光スポットになっているようです。
 その向かい側に、阿弥陀寺があります。
 もと鶴ヶ城本丸内にあった「御三階」は明治3年に移築されたもので、往時の鶴ヶ城の姿を偲ぶことができる数少ない遺構の一つとのこと。
 境内の一画は、周囲よりも一段高くなっています。
 明治元(1868)年9月の鶴ヶ城開城後、壮絶な市街戦が行われた城下には、夥しい戦死者の遺骸が残されました。
 ところが占領・進駐軍である西軍は、遺骸に触れることを禁じたことから、放置されたままになっていたのです。幾度もの嘆願によりようやく埋葬が許可されたのは、翌年2月のこと。
 その時、この阿弥陀寺には、実に1300柱に及ぶ遺骸が運ばれ、埋葬されたのですが、掘った穴におさまり切らなかったために土を盛ったというのです。
 同じ人間、日本人同士、しかもわずか140年前の出来事であることが、俄かには信じられません。
 会津の方たちの無念の思いの深さを思うと、言葉を失います。
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 境内には、元新選組の斎藤一の墓もあります。
130718_8_convert_20130721081729.png 近藤勇は投降、土方歳三も仙台に去った後も、最後まで会津に留まって戦いました。後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここに葬られているそうです。
 午前中に訪ねた「武家屋敷」には、佐々木只三郎の墓がありました。
 こちらは会津の出身、京都見廻組を率いて新選組とともに幕末の京都の治安維持に尽力した(坂本龍馬暗殺犯との説も)後、鳥羽伏見の戦いで戦死。
130719_5_convert_20130721082030.png この日の宿である磐梯高原に向かう途中、遠回りして母成(ぼなり)峠へ。
 慶応4年8月、薩摩、土佐を中心とする西軍が大鳥圭介らが率いる旧幕府軍を破った地です。その後、西軍は会津城下に殺到することとなります。
 また、雨が落ちてきました。
 会津盆地の方向を望みましたが、山々が連なるばかりです。
(「その2」に続きます。)
【ご参考】
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