いま福島原発で働いている人たち

 2013年9月13日(土)は、午後から2件の予定があって都心へ。
 まずは東京・日本橋。東京駅八重洲口からほど近い貸し会議室の一室で、13時から「お話会」が開かれました。
 「お話」をして下さるのは、元東京店力社員の吉川彰浩さんという方です。
 約20名の方が参加。小さな子どもを2人連れた若いご夫妻の姿も。
130914_4_convert_20130916083618.png 吉川さんの話は自己紹介から始まりまた。
 茨城県出身の33歳(FBのフィードを購読させてもらっていたのですか、こんなにお若い方とは、やや意外でした。)。東電学園高等部(東京・日野市にあった東京電力が運営する職業訓練校。2007年に廃止)を卒業し東京電力(株)に入社。
 たまたま福島第1原発(大熊・双葉町)に配属され、10年間、設備の整備・点検を担当。その後、福島第2原発(楢葉・富岡町)に異動して4年間務められたそうです。現在は全町民が避難している双葉町と浪江町に住んでおられたとのこと。
 ホワイトボードに地図を書き、地理関係が分かるように説明して下さいます。
130914_6_convert_20130916104519.png 震災当日の状況。
 大きな揺れの後、机の下から出て、まず原子炉が緊急停止し出力がゼロになっていることを確認。中越沖地震以来、原発の耐震構造は強化されており、この時点では「大きな揺れだったな」という程度の感覚だった。
 ところが高台に避難しているうちに津波が押し寄せ、施設は大きな損傷。敷地は田んぼのように。
 社員全員が集められ、当時の所長から「命がけの作業になるが残ってくれ」と頭を下げられた。見えるはずの集落が消滅しており、みんな家族が心配だったが、多くが残って不眠不休の復旧作業が始まった。 
 地下水からの取水、自衛隊からのタンクローリーの提供等で何とか冷却。
 情報はテレビだけ。1F(イチエフ=福島第一原発)のベントも知らされず、翌日には爆発が起き、多くの負傷者が救急車で運ばれてきた。一緒に働いていた顔見知りばかり。
 最初の2日間はビスケット一つだけ。食事を持ってきてくれる人は誰もいなかった。そのような中での作業だった。
 確かに東電の社員には責任があると思う。しかし、社員ではない作業員さんも同じ状況だった。多くは地元の方で、9月になって奥さんが見つかった方も。自分は原発に食わせてもらってきたからと、仕事を優先していた人が私の回りにも何十人もいた。
 震災時、1Fでは20代の後輩二人が制止を振り切ってパトロールに出て、津波で溺死した。ところが、2人が逃げ出して郡山で飲酒していたといった作り話がネットに掲載された。今も強い憤りを感じている。
 私は浪江町の自宅に戻れなくなり、しばらく発電所に寝泊まりしていたが、ようやくいわき市南部のアパートに入れた。ところが、復興作業の拠点となっている広野町のJビレッジまで1時間、着替えて2Fまで1時間。片道2時間の通勤時間ではみんな体力も精神力も続かない。避難先で子どもがいじめられたり、離婚が増えているという話もある。
 このような状況の中で、技術を持った作業員の方がどんどんやめていった。今ではほとんど顔見知りがいない。原発の収束作業には熟練工が必要にもかかわらず、これから「素人」が携わることになる。士気も低い。
 優秀な人を集めることが必要なのだが、現実は程遠い。
130914_5_convert_20130916083640.png 参加者の皆さんとの質疑応答。
(東電の記者会見を見ていても当事者意識が感じられない)
 現地と東京との間に距離感があるのは事実。そのため、福島復興本社を立ち上げ、被災者の顔を見て、被災地の風景を見ながら仕事をすることになった。
(ネット上の様々な収束のアイディアを検討しては)
 実験することができない。液体金属を入れたりタンカーで移送したり、というのは空想に使い。メガフロートも実用化できなかった。ボルト式のタンクについて「安かろう悪かろう」との批判があるが、あの時点では選択肢はなかった。汚染水が漏れたのは、その後の運用の問題。
(これからの活動について)
 友人たちと組織を立ち上げてお金を集める構想がある。作業員の方の宿舎建設に充てたい。今はプレハブのような所に住んでいる。せめて人並みの居住環境が必要。
(一市民にできることは)
 できることは現時点ではない。
 ただ、心を変えて下さい。そこで働いている人がいることが分かっていただけたなら、それを周りの身近な人に伝えて下さい。もしネットの情報を鵜呑みにしているような人がいれば、できる範囲でその人の考えも変えてほしい。
 1Fは無理だが2Fには郵便物は届く。寒くなるので携帯カイロ等も有難い。避難している子どもからの励ましの手紙には、私も心が震え、支えになった。
 「お話会」は予定を延長して17時前まで続きました。
 吉川さんは、事故とは関係ないご家族の事情もあって退職されましたが、今も現役の社員の方との交流もあり、会社を一方的に批判したり擁護したりする訳ではなく、技術者らしく事実関係を丁寧に、ブログFBで発信し続けられています。
 福島原発の収束作業に携わっている人達を支援することが喫緊の課題です。
 会場を出ると、いつもの週末の都会の風景。しかし、いつまた大きな地震が来るかも知れないと思うと、肌が粟立つような焦燥を禁じ得ません。
 なお、このブログの文責は私個人にあること(聞き間違いや誤解があるかも知れないこと)を、念のため申し添えておきます。
【ご参考】
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