桑原史成さん写真展「不知火海」

 11月7日(木)の終業後、銀座のニコンサロンを訪ねました。
 ここで6日(水)から19日(水)の間、報道写真家・桑原史成(くわばら・しせい)さんの写真展「不知火海」が開催されています。
 写真集「水俣事件」の出版に合わせた企画で、特にこの日は、記録映画監督の原一男さん(代表作に「ゆきゆきて、神軍」等)と対談の形式で、フォトセミナーが開催されたのです。
 私事ながら、2005年から3年間の熊本在勤中に水俣は何度か訪れており、特に2005年7月の環境ネットワークくまもと主催「水俣エコツアー」では、故・原田正純先生から直接現地を案内して頂くという得がたい経験をさせて頂いたのですが、この時に訪れた水俣病資料館でも、桑原さんの写真は多数展示されていました。
 患者や家族の方達の悲惨さ、水俣病の残酷さが、見る者の胸に突き刺さってくるような写真ばかりです。
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 会場は、工事中の旧・松坂屋の銀座店の裏手です。
 18時30分過ぎに入場すると参加者は50名ほど。四方の壁には、桑原さんの写真がぐるりと展示されています。
 桑原さんには何となく怖い人というイメージを持っていたのですが、77歳になられたという桑原さんは、いかにも飄々とした感じで、ユーモアも交えながら、原さんの質問に丁寧に答えられていました。
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 東京農業大学で土木技師になる勉強をしていたが、数字だけで割り切る世界に嫌気がさして在学中に写真専門学校に入学し、両方とも卒業したこと。
 1960年(23歳の)頃、故郷の島根・津和野に帰省する際、たまたま友人にもらった週刊誌の水俣特集の記事を見て、これこそ探し求めているテーマと直感し、現地に通うようになったこと。
 当時は、水俣病の公式確認からわずか4年後、まだ国やチッソは工場排水が原因と認めていなかった時期に貧しい漁村を回り、後に胎児性患者と認定される子ども達を含め、多くの患者、家族の方と出会い写真を撮り始めたこと。
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 しかし、すぐに壁にぶつかったそうです。
 それは、ストレートにシャッターを押すだけで本当にいいのか、という自問でした。
 厳然たる現実とはいえ、目を背けたくなるような写真ではなく、見る人の心を動かす、共感を覚えてくれる写真を撮りたい、と。
 そして撮影されたのが、有名になった「生ける人形」と呼ばれた少女の瞳たけの写真、成人の日に晴れ着で父親に抱かれた「宝子」の家族との集合写真などです。
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 そして現在、水俣病は公式確認から60年が経過し、子どもだった胎児性患者の方達も50歳代以上になっている。
さらに年月が経過すると、水俣病は歴史上の出来事になってしまうかも知れない。
 しかし、写真は記録として後世に残る。
 この点で、自分も少しは貢献できたかなと思う、とまとめられました。
 帰り際、写真集「水俣事件」を求めさせて頂きました。
 桑原さんにサインしてもらう時には、(ミーハーなことに)どきまぎしました。
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 しかし、その写真集をひもとくまでには時間が必要でした。自分なりに覚悟が定まらなかったのです。
 1週間が経過した今朝(11月14日)、ようやく開きました。正に桑原さんの水俣関係の集大成です。1枚1枚の写真が、強烈なインパクトを持って飛び込んできます。
 冒頭に置かれているのは最新の写真。
 今年4月、熊本県に認定申請を棄却された女性(1977年に77歳で物故)を患者と認める最高裁判決が確定した時のもので、写真の原告(次男の方)は81歳です。
 水俣病は今も終わっていないことを示す、作者の強い意図が現れています。
 日本が経済の高度成長を成し遂げる過程で発生した多くの「公害」。
 その象徴が、中央から離れたところで起こった水俣病です。最近は、福島の原発事故と重ね合わせる論調も見られます。
 いずれにしても、水俣病は過去のことではないことを、桑原さんの記録写真は雄弁に語っています。
 写真展「不知火海」は11月19日(火)までの間、銀座のニコンサロンで開催中です(10:30~18:30、最終日は15:00まで)。
【ご参考】
◆ ウェブサイト:フード・マイレージ資料室
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