自宅近くに一画を借りている市民農園。
今年は(今年も?)天候は不安定ですが、トマト、ナス、キュウリ、ジャガイモなどの花が咲き揃い始めています。
2018年5月20日(日)は東京・お茶の水の全労連会館ホールへ。
この日13時30分から開催されたのは、「『雑多なもの』の賑わいを求めて-暴力と破壊の世紀を振り返りながら」というユニークなテーマの講演会。
主催はいのちと暮らしを支える医療・介護・福祉の会です。
講師の藤原辰史(ふじはら・たつし)先生は、京都大・人文科学研究所准教授(歴史学)。2015年に結成された「自由と平和のための京大有志の会」の発起人でもあります。
『ナチスのキッチン』『稲の大東亜共栄圏』『戦争と農業』など非常に示唆に富む著作も多く、一度お話を伺ってみたいという念願がようやく叶いました。
冒頭、主催者の伊藤真美先生(内科医、花の谷クリニック(千葉・南房総市)院長)から
「私たちも色々としっかりと考え、世の中に発信していきたい」等の挨拶。
なお、演台には花ではなく、伊藤先生が買ってこられたというトマトとナスの苗が活けられています。
「花より野菜の方がいいですね」という言葉から、藤原先生の話が始まりました(文責は中田にあります)。
「今、何をやっているか自分でも分からなくなってきており、肩書きも取材等の度に変わる。私が行っている様々な研究や行動が結んでいる焦点について、話ができればと思う」
「今、世の中では意識を失いかねないようなことが続発。政治が劣化している。
最近は、京都大学のタテカン(立て看板)撤去の反対運動に取り組んでいる。国や世界レベルの問題に比べれば些細なことではと忠告してくれる友人もいるが、目の前で起こっていることに何もしないのは不誠実。
タテカンは、大学の情報を市民に向けて発信するユニークなメディアで大学と市民をつなぐ役割を果たしている」
「さらに、撤去する理由に『景観』があげられていることは気持ちが悪い。現代社会は『つるっとした』「スマートなもの』ばかりを求めているよう。殺虫剤や消臭剤を撒くような感覚。実はナチスも景観や清潔さを重視していた」
「アウシュビッツ強制収容所には Arbeit macht Frei と大きく書かれている。労働することで解放されると。収容所の近くには、収容者を賃金ゼロの労働力として活用する多くの大企業の工場が立地していた」
「『粛清する』の元に意味は『清潔』。しかし、清潔が潔癖になると、異質なものと共生することが耐えられなくなってしまう」
「ナチスは、ユダヤ人や共産主義者に対する憎しみを持続させるためにプロパガンダを行った。
現代でも京都では朝鮮人学校への襲撃事件が起こっており、ドイツ・ザクセンでは難民が乗ったバスが民衆に囲まれ『出て行け』と連呼される事件があった。激しい怒声と暴力の背後には、多くの『物言わぬ見物者』がいる」
「現代はテクノロジーに依存している。空爆、毒ガス、機関銃など、相手の顔が分からなくても殺せるようになった。監視社会も大きな問題になっている」
「世界には『クレンジング的根こぎ暴力』が蔓延している。世論は空気によってコントロールされる。農薬やハイブリッド種子は自然を馴致し食を商品化する試み。ナチスの収容所では栄養学の名の下に人体実験も行われた」
「このような『マッチョな上から目線』は、下からちゃんと世界を眺められない人間の弱さのあらわれ」
「マッチョな暴力に対抗するものが『賑わい』。
例えば根圏。目に見えない地下では多くの微生物が共生し、植物の生長を支えている。人間の腸内フローラも同様。これらは再生(死んでは蘇る)の象徴でもある」
「国や世界に背を向けるということではなく、ローカルなレベルでインフォーマルな賑わいのある場を作り、夜のなかに示していく。心を許せる根拠となる場所を作っておけば(根を張っておけば)、根こぎ暴力にも対抗できる。
誰かに頼ったり頼られたりできることを自立というならば、自立と賑わいは両立する」
15分の休憩を挟んで会場との質疑応答。休憩中に書かれた質問用紙が先生の手元に届けられました。
ナチスや農業に関心を持ったきっかけについては、
「自分は過疎地の代表とされる島根県で育ったが、農業や農村が大事にされていないことに疑問を感じて大学に入った。そこで歴史学のゼミに出たところ、ナチスは食料の自給自足を目指していたと聞いたのが関心を持ったきっかけ。
ナチスの過去をちゃんと見た上で、それを乗り越える努力をすることが必要。歴史学とは、過去をリサイクルして色んな可能性を引き出し、未来に活かしていくための学問。現代世界の様々な問題が凝縮している分野が、農業や食ではないか」
緩和医療等にも取り組んでいる主催者の伊藤先生からは
「腸内細菌の賑やかさの指摘があったが、腸内細菌を殺してしまうが抗生物質の恩恵は大きい。ガンを抱えて生きていける時代になった。ケミカルなものもうまく使うという、バランスの取れた発想が必要では」等の質問。
これに対して藤原先生からは
「自分は小さくて不完全であるという自覚が必要。私も勉強するほど知らない世界が増えていく。そのために人の話を聞き、自分に欠けているところを埋めてもらえることに喜びを感じている」等のコメント。
コミュニティとムラ社会との関係についての質問には、
「かつて村は監視装置とされた時代もあったが、今は逆に監視社会を打ち破る可能性を有していると考えている。地域に根を張っていれば監視社会は怖くなくなる。かつての村社会の亀裂を修復する力など、学ぶべきことは多い」
福祉の分野で盛んに言われている「共生型サービス」とは、弱い者をまとめて効率的にみていこうという施策ではないかとの質問には、
「行革や食育といった言葉もそうだが、換骨奪胎して使われるようになっている。基本的には効率を追求する方向で、食育でもNPO等に丸投げする動きが進みつつある。これらに対抗するためには、本来の共生の姿を実践で示していく必要がある。自分自身の宿題としても受け止めたい」とのコメント。
最後に伊藤先生から、
「自分一人は弱い存在でも、賑わいの一員となりたい」等のまとめの挨拶。
食と農をめぐる問題を考えていくに当たっては、歴史学の視点も欠かせないことがよく理解できました。
多くの学びを頂いた講演会でした。