【オーシャン・カレント】子規にとっての食


 東京・根岸に正岡子規が早すぎる晩年を過ごした「子規庵」があります。
 子規は慶応3(1867)年、現在の愛媛・松山に生まれました。16歳の時に上京して東京大学予備門に入学しましたが後に中退、記者として日清戦争に従軍した後に喀血し、闘病生活を送りながら俳誌『ホトトギス』等を舞台に俳句・短歌の革新運動に取り組みます。

やがて肺結核はカリエスに進行し「まるで阿鼻叫喚のような地獄」に陥るなか、子規は「薬も後もその他の療養法も小生には施し難き」とする一方、「ただ小生唯一の療養法は、うまい物を喰ふこと」と記しているのです(『墨汁一滴』、明治34年4月20 日付けの記事)。
 その通り、子規は病人とは思えないほどの健啖家ぶりを発揮します(「ほんのさわり」欄参照)。

しかし、子規の病はさらに重篤となり、「飯もうまくない」と嘆くようになったある日、つきっきりで看病していた母・八重や妹・律 が留守にした一瞬、子規は苦痛のあまり、身近にあった小刀と錐を手に取ろうとさえするのです。
 ちなみに記録魔・子規は、その小刀と錐のスケッチまで残しています(『仰臥漫録』、明治34年10月13日付け)。

明治35(1902)年9月19日未明、満35歳を迎える直前に子規は永眠しました。絶筆の三首にちなみ、その日は「糸瓜忌」と呼ばれています。
 病床の子規にとって食べることとは、病と闘う唯一の武器だったのです。

[参考]子規庵(東京・台東区根岸)
 http://www.shikian.or.jp/
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出典:メルマガ「F.M.Letter」No.152