2024年11月25日(月)は冬晴れの一日。
JR上野駅10時発のひたち7号で福島・いわき市へ。11時56分に常磐線泉駅に下車すると、喪服姿の知合いの方たち。
タクシーでアルコ会館 泉へ。紅(黄)葉が染みるような、抜けるような青空です。
この日、12時30分から挙行されたのは故・吉田美恵子さんの告別式。
ホールには、幅広く活動されてきた吉田さんの功績を示すパネルが展示されていました。全国から寄せられた多数の弔辞も。
参列者は200名近く。おごそかな神式の式は、弔辞に涙を誘われつつも、賑やかな会となりました。祀主の方(ご主人)の挨拶にあったように、ご遺影の吉田さんは、明るい未来を見通しているかのような表情でした。
過去の拙ブログを振り返ってみると・・・
吉田さんに初めてお目に掛かったのは、2013年5月、大和田順子さん(当時はJKSK理事長)に誘っていただいたボランティアバスツアーで福島・いわき市を訪ねた時でした。
東日本大震災と東電福島第一原発の事故から2年2か月後。
なかなかボランティアに参加する機会もなく、忸怩たる思いで過ごしていた私には有難いお誘いで、救われたような思いがしたことを記憶しています。
太陽光発電設備の落成式に参加した後、オーガニックコットン(綿花)の定植作業を体験させて頂きました。吉田恵美子さんからは「私たちが立ち上がっていく姿を見て頂きたい」との挨拶。
まだ常磐自動車道も通行止めのままなど、被災地はまだまだ混乱の中にあったなかでも、あくまでも明るく力強い吉田さんの言葉に、新鮮な印象を受けたことを覚えています。
続く6月のツアーでは、畑の中でTシャツのお披露目会も。
吉田さんからは「環境問題に苦しんでいる福島だからこそ、本物づくりに取り組んでいきたい。多くの人の思い、繋がりが、今日、小さなTシャツに結実したことを嬉しく思う。関係者の皆さまに感謝申し上げたい。しかし、私たちはいつまでも被災者という立場ではなく、周りの人たちに希望を与えていけるような存在になっていきたい」との言葉がありました。
同月、8月には東京でのイベントにもご参加されました。
6月に浜松町で開催されたイベントでは「原発事故で大変な問題を抱えてしまった地域の中で、人のつながりを取り戻していく動きがあることを知って頂きたい」との報告。
8月24日(土)のボラバスツアーでは、広野町のコットン畑で除草と摘芯を体験。畑の前の広大な水田跡地は津波の被害を受け、消波ブロック置き場となっていました。
海水浴場として賑わっていた薄磯海岸(いわき市)も見学。集落の高台移転と防災緑地の建設が計画されていることも教えてくださいました。
9月のボラバスツアーでは、旧警戒区域内の楢葉町、富岡町も見学させて頂きました。
翌2014年4月のアースディ(東京・代々木公園)にも吉田さんは出展。
同年6月(2014年第1回)のボラバスツアーではコットンの種蒔き、7月の第2回では除草・間引きとワークショップを体験。
原発被災地から多数の避難者を受け入れているいわき市では、コミュニティをどう再生していくかが大きな課題となっているとのこと。いつも明るく話して下さる吉田さんですが、この時の言葉の端々には苦渋が滲んでいたようです。
同9月には2014年第3回ツアーに参加。
広野町の遠藤町長も畑に来てくださいました。綿繰り等も体験。
同年最終回のツアーでは収穫を体験しました。
吉田さんが「お手本」を実演。はじけたコットンボールからコットンをつまんで引っ張るとすーっと外れる様子に、参加者からは感嘆の声が。
吉田さんからは、避難者同士、市民と避難者との交流活動等を支援する『コミュニィ交流員』を配置する事業に取り組み始めたとの報告も。いくら困難な課題であっても、着実に向き合い、地域において解決を図っていこうという姿勢に頭が下がる思いがしたことを覚えています。
2015年6月の第1回ボラバスツアーの時には、ようやく常磐自動車道も全線が開通していました。水田跡地の消波ブックも撤去され、農地への復元工事も始められ多くのダンプカーが行き交っています。
吉田さんは「震災から4年3ヶ月。解決されない課題もたくさんあるものの着実に前に向いて進んでいる」と力強く語られました。
同年7月10日(金)、11日(土)は広野町での「車座座談会」に参加。「広野わいわいプロジェクト」のキックオフ・イベントで、ワールドカフェ形式のワークショップ等では吉田さんからも報告を頂きました。
また、原発事故対応の前線基地・Jヴィレッジ(サッカーのナショナルトレーニングセンター)、多くが帰還困難区域内にある大熊町の取組み等も見学させて頂きました。遠藤町長のご自宅に泊めて頂いたのも、忘れがたい思い出です。
同年9月12日(日)の2015年第2回ボラバスツアーでは、畑での除草作業に続いて体育館での特産品づくりのワークショップ。
帰りのバスの中で吉田さんからは、富岡町から避難されている方たちがコットン栽培を始められた様子についても報告して下さいました。このようなコミュニティづくりのお手伝いをしていきたい、とも。
同年11月の第3回ボラバスツアーでは、収穫体験に加えて、東京や金沢でツアー参加者自らが栽培し収穫したコットンの「里帰り」も。受け取って下さる吉田さんの笑顔が強く印象に残っています。
翌年7月には2016年第1回のボラバスツアー。かつて消波ブロック置き場になっていた水田では、緑の稲穂が風になびいていました。防災緑地での除草作業も。
2016年12月のボラバスツアーでは、ブレゼントツリー植栽地での除草作業と、コットンベイブ(人形)作りのワークショップ。この時の吉田さんは一般参加者。広野町の方々による取組みも軌道に乗りつつあるようでした。
2018年4月のプレゼントツリー交流イベントでは、吉田さんは綿繰り作業も指導して下さいました。130年の伝統がありながら原発事故で中断していた浜下り神事「たんたんぺろぺろ」復活の様子も見学。Jヴィレッジには緑の芝生がよみがえっていました。
吉田さんは、依然として多くの困難は抱えながらも、被災地が着実に復興している状況について熱く語って下さいました。
2019年5月は個人で浜通りを訪問。
鈴木亮さん(ふたば地域サポートセンター)に案内して頂いた、富岡町から避難されている方々のコットン畑で吉田さんと再会。
2021年3月11日(木)には、プレゼントツリー主催の復興10周年イベントで広野町を訪問。
この時は、吉田さんからは夜空にあげるランタンづくりを指導して下さいました(何でもできる人のようですが、考えてみると、人に教えられるほどご自身も勉強、練習されたということです)。
2021年11月には、個人で大熊、二本松を経由していわき市内のコットン畑へ。お忙しい吉田さんに付き合っていただき、コットンの収穫作業を少しだけ。広野町では根本賢仁さんにお世話になりました。
コロナ禍もあり、訪問する間隔が空きましたが、2023年4月にはリボーン主催のボラバスツアーに参加し、「天空の里山」等で種蒔き体験。
この時は初参加の方も多く、2年ぶりに再会した吉田さんからは「12年が過ぎて大昔のことのようだが、東日本大震災と原発事故をきっかけにオーガニックコットンの栽培を始めた。被災して農業をあきらめようとしていた人たちに、何とか少しでも前に進んで頂きたいという思いだった」等の説明がありました。
そして2024年10月のボラバスツアー。
「さよなら天ぷらバス」と銘打たれたツアーでしたが、まさか、もうひとつの別れになるとは、当然ながら想像もしていませんでした。
大病をされてからお会いするのは初めてで、風貌も変わり、杖をついておられる姿には、正直、驚きを禁じ得ませんでした。ところがバスの中でマイクをとられると、以前と全く変わらない明るくて力強い声で、ほっとしたことを思い出します。
作業の後の昼食時には、吉田さんは手作りの芋がらの甘酢漬けを出して下さいました。旺盛なサービス精神も健在です。これまで何度、このような吉田さんのお心遣いに癒されてきたことか。
午後は吉田さんの「お話し会」に参加。
原発事故被災地でのコットン栽培は「循環型社会、環境に配慮した生活の構築に向けたモデルとしての世界に向けてメッセージ」だったとのこと。「原発事故の時には、避難するか否かで家族の中にも深刻な分断が生じた。色んな意見を尊重できるような社会を創っていきたい」とも語られました。
時折りユーモアも交えつつ、「夢」と「具体的な構想」と「覚悟」を語る吉田さんの口調は、以前と変わらず明るく、力強く、聴いている私たちを魅了するものでした。拙ブログには「幸い病状は改善されているとのこと。吉田さんとお仲間の皆さんの、これからの活動の発展から目が離せません」と記したのですが・・・
この時に頂いてきた栗を、告別式前日の11月25日(月)に、栗ご飯にして頂きました。
ほくほくと美味。いわき市の風景と、吉田さんの言葉がよみがえって来るようでした。
他の多くの方たちと同じく、私も吉田さんから多くのことを学ばせて頂きました。
そのお預かりした貴重な財産を糧に、これからは私自身も、吉田さんが目指された明るい市民社会の実現に向けて尽力していきたいと決意しています。
(ご参考)
ウェブサイト「フード・マイレージ資料室」
https://food-mileage.jp/
メルマガ「F.M.Letter-フード・マイレージ資料室通信」(月2回、無料)
https://www.mag2.com/m/0001579997