2025年6月26日(木)。朝まで残った前日からの雨は午前中には上がったものの、蒸し暑い一日に。
しかしこの日は、どうしても東京・北区の赤羽に行きたかったのです。

13時過ぎにJR赤羽駅に到着。大きな駅です。
まずは腹ごしらえと、駅前の商業ビル内にある中華料理屋さんへ。担々麺と半炒飯のランチセット、餃子(でかい!)、ついでにビールも。なかなか美味でした。

ビルを出ると、日差しと湿気が体を直撃。
駅前広場の七福神像に見送られつつ、日陰を選びながら徒歩で都道を南下。間もなく右手のビル越しに森が見えてきたので右に折れると石段があり、傍らに都旧跡・稲付城跡との石柱が建っています。
稲付城は、中世から交通の要衝だった岩付街道・岩淵宿近くの高地に、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌が、江戸城と岩付城の連絡拠点として築いた砦と伝えられています。
急な石段を登って山門をくぐると平坦地に。
ここが本丸跡で、現在は自得山静勝寺(じょうしょうじ)の境内になっています。道灌の子孫・太田氏が代々保護してきた曹洞宗の寺院です。

山門から正面にあるのが、道灌堂。
ここに太田道灌の座像が安置されており、毎月26日にのみ扉が開かれ拝観することができます。
文明十八(1486)年七月二六日、主君・扇谷上杉定正の糟谷館(現在の神奈川・伊勢原市)に招かれた太田道灌は、風呂場を出たところを刺客に襲われて絶命。原因は道灌(部下)の声望を定正(上司)が妬んだためとも言われており、以後、扇谷上杉氏は衰亡の一途をたどります。
その月命日である毎月26日に、この道灌堂が開扉されるのです。

像は剃髪した姿で、左ひざを立てて正面を向いています。仏具である払子(ほっす)を右手に持ち、左手でその先を握っています。左手にある説明版によると、像は道灌没後207年目の元禄八(1695)年に造立され、昭和六二(1987)年に修復されたとあります。
この地には2018年にも一度、来ていたのですが、ようやく念願だった道灌像を拝観することができました。

南門から境内を出て、道灌堂の裏手を西方に坂道を下ります。眺望が開け、稲付城はかなりの高台に築かれていたことが分かります。
下り切ったところにあるのが亀ケ池弁財天。稲付城の外堀の一部と伝えられる小さな池には、名前の通りおびただしい数の亀の姿がありました。

さらに西側の丘を登ってみました。振り返ると、ビルの間に稲付城跡の森が見えます。
団地の中に、URまちとくらしのミュージアムがありました。完全予約制とのことで、次の予約可能時間まで30分以上あったので見学は断念。
敷地内には、いわゆるスターハウス(三角形の塔状の住棟)も何棟か残されています。

暑い、暑い。赤羽駅まで戻り、コーヒーショップで一休み。2時間弱のプチ散歩でした。
お店を出ると雲が多くなっています。夕刻から雷雨との予報もあり、急いで(北区だけに)帰宅の途につきました。
太田道灌、大河ドラマでやらないかな。できれば三谷幸喜の脚本で。
(ご参考)
ウェブサイト「フード・マイレージ資料室」
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