-安田菜津紀『遺骨と祈り』(2025年5月、産業編集センター)-
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【ポイント】
福島、沖縄、パレスチナに共通しているのは、命の尊厳を踏みつける不条理の構造。著者は「踏んでいる側」が無自覚でいること自体が暴力であるとします。

著者は1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialog for People副代表。フォトジャーナリストとして国内外の災害、戦争、貧困等の現場を取材されています。
本書に登場するのは、福島、沖縄、そしてガザを含むパレスチナという、歴史も、置かれた現状も全く異なる3地域です。
福島・大熊町で、東日本大震災による津波と東電福島第一原発の事故により、ただ一人行方不明のままだった娘(当時小学校1年生)の遺骨を探し続ける木村紀夫さん。木村さんは「娘は見つからないことで、自然に対する畏怖が足らず、原発の稼働を許し続けてきた無自覚な自分にメッセージを送っていたのかも知れない」と語ります。
沖縄で戦没者の遺骨収集を続けながら、激戦地だった本島南部の土砂を辺野古基地建設の埋め立てに使おうとする国・県にハンスト等で抗議する具志堅隆松さん。
著者は木村さんを沖縄に誘って具志堅さんと引き合わせ、その後、具志堅さんは福島に来て木村さんの捜索を手伝い、ついに娘さんの遺骨の一部を発見します。具志堅さんは「出てこいよ、出てこいよ、出てくれば家族のもとに帰れるよ」と念じながら土を掘ったそうです。
そして現在、パレスチナで行われている民族浄化。
ガザは「天井のない監獄」と形容されることがありますが、「監獄とは罪を犯した人が収容される場所。ガザの人たちが何の罪を償わされているのか」と著者は憤ります。
国あるいは国際社会が、命の尊厳を幾重にも踏みつけながら何かを推し進めていくという不条理の構造が、福島、沖縄、パレスチナに共通しているのです。
そして著者は、常に「踏んでいる側」に立っていると自覚します。これまでの自分は痛みを感じずにいられる特権に、爪の先までどっぷりと漬かって生きてきた。社会は踏まれている側ばかりに何かを求めるが、本来必要なのは「踏んでいる側」から変わることであり、そもそも「踏んでいる側」が無自覚であること自体が暴力であると断言しています。
私自身も「特権階級の真ん中にいる一人」であるという自覚を、心に刻みたいと思います。
出典:
F.M.Letter-フード・マイレージ資料室 通信-pray for peace.
No.319、2025年6月25日(水)[和暦 水無月朔日]
https://food-mileage.jp/2025/02/10/letter-309/
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