【ブログ】行友 弥さん「全村避難から16年目の飯舘村」(第10回 食と農の未来フォーラム)

2026年5月28日(木)19時から、第10回 食と農の未来フォーラムをオンライン開催しました。
 この日のゲストは元 毎日新聞社記者、飯舘村地域おこし協力隊員の行友 弥(ゆきとも・わたる)さん。テーマは「全村避難から16年目の飯舘村~原発事故からの「復興」のリアル~」です(趣旨、過去の開催実績等はこちら)。

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19時に開会。30名近い方がリアルで参加して下さっています(他にアーカイブ視聴予定の方が10名ほど)。
 まず、中田からフォーラムの趣旨・開催実績等に続き、ゲストのお話を伺う前に参考となる状況等を説明(中田説明資料の全体はこちら)。

「日本で最も美しい村」と呼ばれていた飯舘村は、2011年3月11日(金)の東日本大震災と東京電力・福島第一原子力発電所の事故により、一時、全村避難を強いられた。

原発事故から16年目に入っても、福島県では現在も2万人以上が望まない避難を強いられており、300平方km以上の国土が帰還困難とされているのが現実。

居住率(住民基本台帳登録人口に対する現に居住している者の数の割合)は、避難指示の解除が遅かった市町村では現在も低い水準にとどまっている。

東京電力・福島第一原発の事故後は減少傾向で推移してきた日本の発電量は、今後、生成AI(人工知能)の普及等により大きく増加すると見込まれており、原発については国の計画では従来の「依存度低減」から「最大限活用」に改訂されている。

最後に、実際に行友さんとご一緒した(案内して下さった)時の飯舘村の写真も紹介させて頂きつつ、「今回も質疑応答・意見交換を主とする会としたい」と説明させて頂きました。

続いて、行友さんからのお話です(行友さんの説明資料の全体はこちら)。なお、以下の文責は中田にあります。

まずは自己紹介から。
 1960年北海道函館市生まれで、学生時代は原発建設予定地での反対デモにも参加したが、地元の人々は遠巻きにするだけだった。原発マネーに期待するしかない漁村の現実も知らずに現地へ乗り込んだ自分を恥じた。
 1985年に毎日新聞社に入社し、初任地が福島だった。福島第1原発は10年以上前から稼働し、反対運動も勢いを失っていた。学生時代の経験もあり、原発問題を積極的には取材しなかった。
 2011年の3月に発生した事故に衝撃を受け、そんな自分を悔いた。計画停電の夜、真っ暗になった都心でビルの谷間から星空を見て、都市の繁栄は「迷惑施設」原発を押し付けられた地方が支えていることを実感した。電気だけでなく食料も同じだと思った。

 新聞社を早期退職して農林中金総合研究所に転職し、研究員として被災地の調査を担当。特に足しげく通ったのが飯舘村だった。飯舘村は原発マネーの恩恵に浴しておらず、事故直後は近隣自治体の避難者を受け入れていたが、高い放射線量が計測され「計画的避難区域」に指定された。2017年3月に一部地域を除き避難指示が解除されるまで6年間、全村避難が続いた。

飯舘村には、泣き言や恨み言を言うより自分の力で地域を再生させようとする人々が多かった。
 佐野ハツノさんは、他の被災者を元気づけるため仮設住宅で手芸サークルを始めた。農家民宿の再開を夢見ていたが、帰村後にがんで帰らぬ人となった。水田放牧で農地を守った山田猛史さんの奮闘にも感銘を受けた。今はその思いを息子の豊さんが引き継ぎ、繁殖から食肉販売までの一貫経営で「飯舘牛」復活を目指している。山田父子のように災害を契機につながりを強めた家族は少なくない。

飯舘村は「までいライフ」を村づくりの基本理念に掲げてきた。までいの語源は「真手(そろえた両手)」。手間暇を惜しまない、丁寧、つつましいといった意味がある。
 つまり「飯舘流スローライフ」で、経済発展(効率性・利便性の追求)とともに失われた宝物(人と自然、人と人とのつながりなど)を掘り起こし、真の豊かさを目指そうということ。

飯舘村は典型的な中山間地域で、震災前の農業は米、野菜、葉タバコ、畜産など多様な品目を組み合わせた小規模な複合経営が主流だった。近隣の都市部に通勤する兼業農家も多かった。
 2017年に全村避難が解消した後も、南部の長泥行政区が帰還困難区域として残っている。また、山林は原則として除染が行われていないため、現在も野生の山菜やキノコは測れば放射線量が高い。

原発事故で営農を休止した農地の3割強が2024年度までに営農再開されたが、再開面積は伸び悩んでいる。村の振興公社や若手農家で作る営農組合が引き受け飼料用作物などを栽培しているが、やはり条件の悪い山間部に入ると荒廃した農地もある。
 営農再開が進まない最大の要因は「人」だと思う。避難先から帰還した住民は1200人ほどで頭打ちになり、中堅・若手世代が戻ってこない。高齢化率は震災前の3割から6割超へ急上昇した。一方、移住者(転入者)は増え続け300人近くに達している。ただ、それを加えても村内に居住する人の数は1500人ぐらいにとどまり、最近は減り始めている。帰還した高齢者が亡くなっていくからだ。
 このほか、現在も未帰還の住民約3000人が村に住民票を残しているが、被災者に対する医療等の優遇措置が打ち切られれば、転出者が増えていく可能性もある。

 復興予算(国の交付金など)で急膨張した村の財政も心配だ。復興事業で建設した施設などの維持費が重い負担となり、税収の減少も予想される。「復興依存」からの脱却を図る必要があると思う。

私は復興調査で知り合った地元の方に声をかけていただき、飯舘村の地域おこし協力隊に応募した。地元の企業・団体に雇われる「雇用型」の協力隊員として2024年10月から26年3月まで「一般社団法人いいたて結い農園」に勤務した。

 結い農園は2020年に大久保・外内(よそうち)行政区の全農家約50世帯が立ち上げ、主にエゴマの栽培と商品化(搾油など)に取り組んできた。作付けや収穫には未帰還の住民、外部の支援者や学生らも駆け付け、コミュニティの維持・再生と「関係人口」獲得にもつながっていた。 

エゴマの栽培や調製(洗浄・乾燥・選別等)には多くの人手がかかるが「むしろ、それがいいところだ」と農園の代表で行政区長も務めた長正増夫さんは言っていた。作業の合間には互いの近況や共通の知人の消息などを語り合い、私も昔の村の様子などを聞くのが楽しみだった。

 残念ながら、結い農園は本年3月に解散した。最大の理由はメンバーの高齢化で、作業に参加できる人もじわじわと減っていた。経営収支も赤字で、行政区の他の収入で穴埋めする状態が続いていた。加工品(油や「おはぎ」など)を地元の道の駅や村内外で開かれるイベントで販売し黒字化を模索したが、うまくいかなかった。協力隊員である自分の力不足もある。なお、エゴマは規模を縮小して生産を続けると聞いたが、搾油などは外部の業者に委託することも検討しているようだ。

この15年を振り返り「復興とは何か」を考えてみた。
 阪神・淡路大震災以降、大規模災害が起きるたびに「創造的復興」がうたわれてきたが、中身はインフラや「箱モノ」の整備など、ハードの復興に偏りがちだ。
 たとえば津波被災地では農地の大区画化が行われ、それを受け皿に大規模な法人経営も次々生まれた。水産では(複数の業者が組んで受給する)「グループ補助金」で大規模な水産加工施設が整備された。しかし、大幅な人口減少で需要が低迷し、経営が行き詰まったケースも多いと聞く。

三陸地方では「津波に強い街づくり」として大規模な「かさ上げ」工事が行われたが、造成された土地に人が戻らず、空き地だらけになっているところも少なくない。
 自宅を再建できない被災者らが入居する災害公営住宅(復興住宅)ではコミュニティが形成されず、自治会の解散や住民の孤立・孤独死が問題になっている。宮城・岩手両県では社会福祉協議会やNPOによる入居者の見守り活動が行われてきたが、それを支える国の補助金が3月で打ち切られた。

飯舘村でも帰還後に配偶者に先立たれ一人暮らしになる高齢者が多いが、村内に訪問介護の事業所はなく、入所施設も職員の人手不足で十分な収容能力がない。

南相馬市小高区(旧避難指示区域)のある農業法人の代表は「農業が再開されれば集落のにぎわいも戻るかと思ったが、そうじゃなかった。子どもの声は聞こえないし、神社のお祭りも再開しない。復興っていったい何だろう」と言っていた。

もともと過疎化・高齢化が進んでいた地域で大規模な災害が起こると「衰退」の流れが一気に加速される。一昨年の能登半島地震の後は、経済界等から「住民を都市部に移住(撤退)させるべきだ」といった短絡的な意見さえ出た。
 「その方が被災者のため」と言うが、原発事故で都市部の「みなし仮設」(借り上げ住宅)に避難した人たちはコミュニティから切り離され、肩身の狭い思いで暮らしていた。

 災害をきっかけに関係人口や移住者が増え、それが将来への希望になる面もある。ただ、彼らが地域のコミュニティとどうつながっているのかが気になる。一部の移住者らは地域の共同活動に参加せず「浮いた存在」に見えることもあった。

人口減少や少子高齢化は全国的な課題だ。単身世帯の孤立などは都市部の方が深刻な面もある。被災地・被災者が抱える問題を「人ごと」ではなく「自分ごと」として考えなければいけない。
 繰り返しだが、東京都心をきらびやかに彩る光が一体どこで作られてきたのかを、いま一度みんなに考えてもらいたい。

20時30分過ぎからは、参加者との間での質疑応答・意見交換です。

 行友さんとも親しく、飯舘村の事情にも詳しい農業ジャーナリストの方からは
 「話を聞いていてつらくなった。お話に出た佐野ハツノさんは、生前、『30年後に孫が戻ってこられるような地域を作ることが私たちの仕事』とおっしゃっていたが、高齢化もあってこのようなビジョンが描けなくなってきているのでは」と質問。
 行友さんは、
 「中心になって頑張ってきたのは被災した時に60代半ばぐらいだった世代。その人たちが80歳前後になったが、引き継げる人がいない。その下の世代は避難先で仕事を見つけるなど生活の基盤を築いており、これから戻ってくることは期待できない。移住者らが地域の新たな担い手になればいいが、それも簡単ではない。残念ながら明快な答えはない」と回答。

棚田の調査研究をされている男性からは
 「私の地元(九州)の近くにも原発があり、話の内容は肌身に感じた。2024年正月に被災した能登では、有名な白米千枚田には支援も集まり復旧も進んでいるが、他の山間部にある棚田は忘れられているの」等と発言。
 行友さんからは「食料・農業・農村政策審議会でも棚田の復興に財政資金を投じることを疑問視する意見が出たが、農水省は『白米千枚田は世界農業遺産に登録され、観光的価値がある』という反論しかしなかった。棚田や中山間地域の多面的な価値を国民全体の中でどのように位置付けるのか、議論を喚起していくことが必要」等とコメント。

有機農業関係の団体に所属されている女性からは
 「震災後の早い時期から福島・二本松に通い援農活動を続けているが、地元に溶け込み切れてないと感じている。移住者を含めて都会の人は、どういう関わり方をするのが、一番、地元の人たちに喜ばれるのか」と質問。
 これに対して行友さんからは
 「それは私自身も痛感した。『話を聞かせて』と申し込んで『こっちはそれどころじゃないんだ』と断られたこともある。震災直後は大勢のジャーナリスト、研究者、支援者と称する人たちが押し寄せ、多くはしばらくすると来なくなった。『あんたもいずれ来なくなるんだろ』と言われたこともある。
 それでも諦めず、アプローチを続けているうちに信頼してもらえるようになった。その土地に根を下ろして生きている人たちに謙虚に学び、人間的な関わりを作っていくことが必要ではないか」等と回答。

生協で働いておられるという男性からは
 「生協として被災地支援は続けているが、職員は地域の実態を知る機会はあまりないので有難い機会だった」と感想を述べて下さいました。

最後に行友さんから
 「今年は水俣病の公式確認から70年でもあるが、国を豊かにし、生活を便利にする経済の営みが特定の地域の人に強い痛みを強いたという意味で、水俣と福島はつながっている。
 原発事故から15年以上がたち、国はAIの普及で電力需要が増えるからと原発の再稼働や新増設へ突っ走っている。しかし核技術や遺伝子操作と同様、AIにも大きなリスクがある。大げさかも知れないが、人類は立ち止まって考えなければならないところに来ているのではないか」と発言がありました。

予定の21時を15分ほど超過して、フォーラム本体は終了です。
 その後は恒例の「延長戦」。行友さん含め10名ほどの方が残って下さり、30分ほど意見交換を続けました。なお、この部分はレコーディングしていません。

ここでも引き続き「支援のあり方」が主な話題となりました。被災地等の支援のために現地に入られている方ばかりなので、話の内容も具体的です。

 「最初は足手まといになることを覚悟して飛び込み、通い続けて、個人的な関係性を構築していくしかないのでは。100%理解できないことは認めつつ、寄り添うという姿勢が必要」
 「『上から目線』は厳禁で、謙虚さを忘れず、相手へのリスペクトも欠かせない」
 「野次馬根性になってはならないと、自らを戒めている」等の意見。

「震災から8か月後の2024年9月に能登に支援に入った時、ちょうど豪雨に見舞われて自分たちも避難所で身動きが取れなくなった。この時、避難している方たちから米を頂くなど、こちらが助けてもらったことをきっかけに仲良くなれた」という経験談を紹介して下さった方も。

「Uターンして地域を盛り上げようと頑張っている友人がいるが、むしろ地元の人は静かに暮らしたい、安心して老後を迎えたいと思っている人の方が多い」との発言には、
 「できれば今まで頑張ってきた人の努力を将来につないでいく、埋み火のような、触媒になるような若い世代の人たちが出てくることを期待したい」との言葉も。

最後に行友さんは「コンパッション」(compassion)という言葉を口にしました。「単なる同情や哀れみではなく、他者の苦難(passion)を一緒に(com)受け止める」という意味だそうです。
 被災の現場に移住し、地元の方たちと一緒に汗を流してこられた行友さんならではの発言と感じました。

21時45分頃に全てが終了。
 私自身、行友さんには何度も飯舘村を案内して頂きましたが、まとまったお話を伺ったのは初めてで、非常に貴重な、刺激に富むフォーラムでした。
 なお、原発については様々な意見があります。これからも勉強していきたいと思います。
 行友さん、参加して下さった皆様に感謝申し上げます。

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