2018年、関東甲信地方は6月6日(水)に梅雨入り。
様々な色と形の紫陽花が目を楽しませてくれる季節となりました。
6月10日(土)は梅雨の晴れ間、蒸し暑い一日に。午前中に都心にある某私立大学へ。
N先生による読書会(非公開、ロコミ)の第1回目。
テキストはイヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(渡辺京二・渡辺梨佐訳、ちくま学芸文庫、2015)です。
参加者は、当大学生のYさん、以前に先生が勤務されていた大学での教え子だったSさんとTさん。
それに先生と知り合いの社会人・Mさん(福祉関係の仕事をしておられ、別の研究会で私も存じ上げている方)という少人数です。
予定の10時を少し回ったところで読書会がスタート(文責・中田)。。
まず、先生から「この春にこの大学に移籍、主に院生の研究指導を担当するが、秋からは学部生向けの授業も持たせてもらう予定。そこで、先だって読書会を開催し、参加者の皆さんから意見をもらって、秋からの授業に活かしていきたい」等の説明
引き続き、スライドを用いてイリイチの経歴等について説明。
「1926年ウィーン生まれ。哲学、神学、歴史学を学んだ。30歳の時にプエルトリコのカトリック大学に副学長として赴任。当時の中南米では米国等により布教と一体化した開発援助が盛んに行われていたが、これにイリイチは真っ向から反対。
後にメキシコに移って研究センターを設立、常に異文化との対話ということに関心を持ち続け、産業社会の制度や仕組みについて批判的な研究を続けた。
産業化はある段階までは人間の生活を豊かにすることに貢献するが、それを超えて肥大化すると生活の質は逆に落ちてしまうとした」
「イリイチの思想を理解するためのカギとなるのが『道具』という概念。本読書会でもこの言葉に焦点を当てていきたい」
話の区切り毎に、先生は参加者に質問や意見はないかと問いかけます。
「本書の良さを、周りの人にうまく伝えられるようになりたい」と発言された方も。
ここで「道具」という言葉についてのワークショップ。方法についても参加者と相談しながらです。
各自、道具という言葉から連想することを紙に書き出し、その後シェアすることになりました。
10分ほど後、先生はSさんを指名。自分の発表だけではなく、ワークショップの進行も任せるとのこと。
Sさんは「私がまず思いついたのは、釘抜きなどの大工道具。それに調理の道具、糸車や織機。楽器も表現のための道具だし、数学の公式なども道具と言えるかも知れない」と発表した後、次の人を指名。
「人の手足、眼や耳の役割を拡張するもの。スマホは使いこなせていないから私にとっては道具とは言えない」
関連するように、自発的に様々な発言。
「ガラケーは道具なのかな。アナログとデジタルとの境界が関係あるかも。アートよりはデザインの方が道具に近いイメージ」
「アートはそれ自体が目的だが、道具自体は目的とは違うということか」
「同じものでも人によって違ってくる。酒器は、お酒を飲む道具でもあり、同時にアート(作品)でもある」
「たどっていくと、自分の体そのものも道具かも知れない」
このようなやり取りを聞いておられた先生からは、
「『道具』はマクルーハンの『メディア』(人間の身体能力を拡張させるもの)と似ている。
生身の人間の身体能力を、あるベクトルに向かって拡張させるもの。そこには実用性が備わっており、目的によって道具は変わる」
「イリイチは、本来、生きているものは道具にはなり得ないが、近代は道具にしてしまったとしている。人間が支配・コントロールできるのが道具のあるべき姿。
また、道具には二面性があり、ある特定の方向の目的しか達成できない。例えばインターネットは情報収集等に便利だが、漢字が書けなくなるなどの制約も併せ持っている」
続いて、本書の「はじめに」から印象に残った部分等について発表し合いました。
「本書が刊行されたのは1993年。『人類の3分の2が脱産業主義的な均衡を選択することによって、産業主義時代を経過せずにすますことが可能』等とあるが(p.11)、40年後の現在は、この割合はどうなっているのだろうかと気になった」
「どこまで行くと行き過ぎになるのだろうか。その見極めはどうすればいいのか」
「共感する部分が多い。学校でも本当に生きるために必要なことは学べていないと感じている」
「コンヴィヴィアルという言葉を使うことに、盛んに言い訳をしている部分が気になる(p.18)。『宴会気分』で語り合うこともいいのではないか」
先生からは、
「イリイチの本を読む時は、英語で書いていること、主たるオーディエンスは英語圏の人を想定しているということを押さえておく必要。イリイチは自ら独語、仏語にも翻訳するなど言語には堪能な人。英語の意味は、スペイン語の『節制する楽しみ』と異なっている。
現在の英語の辞書を引くと、宴会気分というだけではなく『1人で酔っ払って盛り上がっている状態』といった意味もある。そこに他者は不在」等の発言。
続いて、先生は参加者全員に立ってスクリーンの方を向くように指示され、「今、他の人の表情を見ることができますか」と問われました。
もちろん、テーブルを囲んでいた先ほどまでと違って、後ろや横にいる人の顔は見えません。
先生は「これが今の社会の状況。道具は人との繋がりも規定している」と説明。
さらに、「『自然な規模と限界を認識することが必要』との記述がある(p.17)。この 自然に』の意味を考えていくこともが必要」等とまとめられました。
これから、毎週土曜日の10時から「スローに」読書会を継続していくことに。
参加できる人数にもよりますが、次回は16日の予定。もう一度「はじめに」と、比較的読みやすい第Ⅱ章を読むことになりました。
正午を回って終了。
学生時代からの先生の行きつけという洋食屋さんに案内して下さいました。
落ち着いたいい雰囲気で、ハヤシライスとアイスコーヒーを美味しく頂きました。