【ブログ】クロストーク 林田光弘 vs 高坂勝@たまTSUKI

2018年11月27日(月)は、久しぶりに東京・池袋のオーガニックバー「たまにはTSUKIでも眺めましょ」(たまTSUkI)へ。
 本年3月一杯で閉店された飲食店が、この日のイベントの会場です。

19時から開催されたのは「クロストーク 林田光弘 vs 高坂勝~核廃絶・ダウンシフト・環境問題」。
 15名ほどの参加者で小さなバーは満杯です。

定刻の19時を回り、発起人の田部知江子さんから開会挨拶。
 弁護士として原爆症認定など多くの案件に携わっておられますが、この日はお料理も担当されるようです。

ヒバクシャ国際署名キャンペーンリーダー・林田光弘さんは明治学院大・大学院に在学中。

1992年長崎市生まれで高校生の時から平和大使等として活動し、大学では SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)にも参加された方です。

スライドを壁に映写しながら、林田さんの話が始まりました(文責・中田)。
 「被爆者の方たちの平均年齢は82歳。その方たちが自ら署名用紙をつくり、全世界に呼びかけているのが『ヒバクシャ国際署名』。
 これまでに800万筆以上が集まっており、4回にわたって目録を国連に提出している」

「昨年(2017)は画期的な年だった。
 7月7日には国連で核兵器禁止条約が122か国・地域の賛成により採択された(核保有国や日本は不参加)。
 会議に先だって署名の目録を議長が受け取るというセレモニーがあり、私たちも条約採択の後押しができたのではと思っている」

「また、10月には世界の500余の団体が参加する国際的なネットワーク・ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞」

「しかし私自身、核廃絶の話は関心のある人にしか伝えられていないと感じている」

「最近、韓国のアイドルグループの1人が原爆Tシャツを着用して日本の番組への出演を拒否されるという事件があった。Tシャツには原爆投下が韓国の解放につながったとの文章と写真。
 高校生達にはホットな話題だったようで、核の問題を考えるきっかけにはなったのでは」

「核兵器禁止条約の批准国は思ったように増えておらず、日本も日米安保条約が見直されない限り署名もできないとの見方が多い」
 「しかし、条約で禁止されるのは核兵器が初めてだけではなく、生物兵器、化学兵器等の大量破壊兵器にも禁止条約がある。地雷についても、故ダイアナ妃等が被害者とともにテレビ出演する等のキャンペーンが展開され、もはや使うことはできないという状況が生まれた」

「核兵器の非人道性が突破口はなるのではと考えている。もし核兵器が使われたら、医師が救護に入ることもできなくなる」

ここで高坂(こうさか)勝さんが発言。
 髙坂さんは1970年生まれ。30歳で大手企業を退社し「たまTSUKI」を開店。現在は活動の拠点を千葉・匝瑳(そうさ)市に移し、NPO法人SOSA Project代表として米や大豆の自給、移住者の支援活動を行っておられる方。

「環境問題に取り組んでいる団体も平和運動には関心はあり、余裕があれば協働していけるはず。しかし現実には手一杯で忙しすぎる」
 さらに、「SEALDs は素晴らしい活動だったが、その他大勢の無関心層も増えている。若者も二極化しているのでは」等の発言。

これを受けて林田さんからは、
 「SEALDsは『お任せ民主主義では駄目』という思いで2015年にスタートしたが、気が付くとSEALDsに任せておけば良いという風潮が出てきた。自分たちも学生としてそれぞれの専門性を磨く必要もあり、翌年8月15日に解散した」

「しかし歩みを止めた訳ではなく、それぞれの分野で活動を続けている。自分は核兵器廃絶であり、奥田愛基はアートと社会をつなぐイベントを無料開催した」

会場からは「プルトニウム保有国でもある日本は率先して条約を批准すべき。しかし個人か 変わらないと社会は変わらない」とする男性。
 沖縄研究を専門とされている大学教員の方からは「しんどいけど、学生達にも言い続けるしかない」等の発言。

意見交換の間に、ご飯と味噌汁、野菜などが配られました。
 新米も味噌(大豆)も、田部先生が匝瑳で自給されたものだそうです。飲み物には寺田本家(千葉・神崎町)の「むすひ」を頂きました。

現に北朝鮮が核やミサイル開発を進めているなか、核抑止力を放棄することは現実的ではないのでは、との質問には、

「抑止力は相手が信頼できる国家等であることが前提で、テロリストには通用しない。サイバーテロで発射ボタンが押される可能性も否定できない。1発の核兵器使用で大量の粉じんが地球を覆い、気温が下がって深刻な飢餓を引き起こす(「桜の冬」)との説もある」

「このような危険性を考えると、核は廃絶した方がリスクは小さいと考えている」等の回答。

後半の林田さんの話は、被爆した方たちの生活史に着目したものでした。

「語り部さんの話も、原爆が投下された1945年の8月9日が地獄絵図だったという内容が中心。
 しかし、核兵器の本当の恐ろしさは、放射線の影響が長く続くことにある。生き残った方たちにとっては、まさに今日まで被爆体験。就職や結婚の際も常に被爆者であるという事実がついて回る。
 被爆者の方一人ひとりに独自の物語がある」

「『怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ』という言葉があるように、長崎では積極的に発言しようとする人が相対的に少ない」
 「原爆が投下された浦上地区は市の中心部から少し外れており、かつては禁教であったキリスト教徒が多く、被差別部落もあった。
 自分もこの地区の出身だが、後になってその歴史を知ったことが核廃絶運動にのめり込むきっかけになった」

「韓国アイドル事件でも明らかになったように、原爆投下には様々な評価や見方がある。
 戦争の被害者という立場からだけではなく、被爆者の方たちが戦後をどのように歩んでこられたかという話は、普遍的な内容を含むのではないか」

この日は、現役の高校生平和大使の女性(東京出身)も参加されていました。
 ふだん友達との間で原爆や平和について語り合う機会はあまりないそうですが、この日の刺激的な話を受けて平和活動に取り組んでいく決意を新たにされたようです(一所懸命にメモを取られていました)。

高坂さんからは
 「若い頃は理想を持っていても就職すると会社のことしか見えなくなる。サラリーマン時代の自分もそうだった。会社を辞めて気づいたことが沢山あった。
 だから自分の時間を取り戻そう、たまには月でも眺めませんかと、ダウンシフトを提唱している」

「一方で、若い人は考えが浅いと批判する大人もいる。広く入り口を作ってウェルカムという姿勢が不可欠。
 重要なのは想像力・共感力。そのためには知識ではなく、世間のことを知ろうとする好奇心が必要」

「面接で米づくりや里山活動をしていると、たくさんの気づきや嬉しいこともある」等の発言。

さらに林田さんから
 「今も放射能への不安を抱えている人、偏見や差別を恐れて被爆者であることを隠している人も多い。
 水俣病研究者・栗原彬先生の『グレイゾーンに立ち続けることが必要』という言葉に強く共感している。どちらかのサイドに組みするのではなく、両側を見続けることで共感を拡げていけるのではないか」

気が付くと22時を回っていました。トーク終了後も参加者との間で話は尽きないようです。

林田さん、高坂さんの思いに触れ、心励まされるイベントでした。
 お声をかけて下さった田部先生にも感謝です(ご馳走様でした)。

ところで「たまTSUKi」は、いよいよ物理的にも閉じられるそうです。
 独特の空気に包まれた空間が無くなってしまうのは何とも淋しい限りですが。
 しかし、惜しむばかりではなく、自分自身の回りに「たまTSUKI」に似た空気を醸し出していけるように心がけたいと思います。