2017年11月11日(土)。
江戸コン総合講座のグループワーク等の終了後、JR埼京線で大宮に移動。
駅ナカで少し遅い昼食(牛タン、芋煮セット。豪華!)を頂き15時2分発の東北新幹線・やまびこに乗車。郡山で在来線に乗り換え、車両点検で若干遅れ17時前に二本松駅に到着した時には、すっかり日は暮れ、小雨まで落ちてきました。
二本松少年隊の銅像も濡れています。
17時23分発の東和小学校行きバスで30分ほど、長沢バス停から街灯と住宅の灯りを頼りに10分弱歩き、目指す農家民宿・遊雲(ゆう)の里に到着。
NPO法人CSまちデザインが毎年実施している福島スタディツアーに、遅れて合流しました(この日は「ふくしま再生の会」の菅野宗夫さんと菅野典雄村長の話を聞かれたそうです。参加できず残念!)。
ちょうど守友裕一先生(福島大学特認教授)を講師に迎えての学習会が始まるところでした。
「原子力災害と新たなむらづくり」と題するレジュメをはじめ、多くの資料を準備して下さっています。
災害の初期状況と各地の対応、飯舘村のむらづくりの歴史(村の誕生から村民参加のむらづくりの始まり、若妻の翼(ヨーロッパ研修事業)、までいライフ等)、全村避難中の諸活動、営農再開ビジョン等について詳細に説明して下さいました。
震災前から現在まで、一貫して飯舘村に寄り添ってこられた守友先生ならではの、充実したお話を伺うことができました(ちなみに守友先生は、この2日間のツアー全行程に同行して下さいました)。
学習会の終了後は、CSまちデザインの大江正章理事(コモンズ)の乾杯で交流会スタート。奥様の手による様々な料理が並びます。
講演から戻られた民宿のオーナー・菅野正寿さんからは、急逝された野中昌法先生(新潟大)の思いを紡ぐシンポジウム(11月26日、福島大)の紹介もありました。
なお、交流会には野中先生の奥様も顔を出して下さいました。
この地区に移住・新規就農された方の地ビール、菅野さん達の大豆やお米で作った豆腐や納豆、純米酒等も頂きました。
この日は数軒の民宿に分宿することになっていて、私は4名の方とともに「成上」(なりあげ)へ。奥様が向かえに来て下さりました。
養蚕をされていた広い母屋を改装されたとのことで、広くて快適な空間です。ここでもご主人にビールなど頂き、23時過ぎに布団へ(爆睡)。
翌朝6は時過ぎに起き出し、民宿の周囲を散策。
楽しい手作りの看板。改めて明るいなかでみると、やはり大きな家です。
昨夜遅くまで付き合って下さったご主人が、早くから牛の世話をされていたようです。山間の棚田は電気柵で囲われていました。柿の実が色づいています。
野菜たっぷりの朝食。奥様手作りの麹漬け味噌はご飯によく合います(手土産に持たせて下さいました)。
朝刊一面には「EUが県産米規制を解除」との記事。
朝も、奥様が遊雲の里まで送って下さいました。ここも改めて明るい中でみると、なかなか立派な建物です。
ここで2台のレンタカーに分乗し、飯舘村に向かいます。
途中、通過した川俣町の山木屋地区も今年3月に避難指示が解除されましたが、大量の除染廃棄物が仮置きされている光景は2年前に来た時と変わっていません。
そして峠を超え、いよいよ飯舘村へ。
「長泥方面通行止め」の標識を見つつ、その長泥地区に向かいます。そして間もなく、道路を封鎖するゲートが現れました。
飯舘村の中で、唯一、避難指示が解除されていないのが長泥地区で、現在も帰還困難区域に指定されています。
車はUターンして村の中心部に向かいます。
ここでも車窓から目立つのは、除染廃棄物の山。
除染のために剥ぎ取った表土等がフレコンバックに入れられ(1トン入るため「トン袋」と呼ばれるそうです)、緑色のシートが掛けられています。
車は役場の近くを通過し、到着した村の西部に当たる関根・松塚地区の集会施設では、畜産農家の山田猛史さんが待っていて下さいました。
ここで、先日の東京での事前勉強会の講師も務められた行友弥さんを進行役に、山田さんから話を伺うことに。
1948年のお生まれの山田さんは、震災前はこの地で米、牛、たばこ、ブロッコリ等の複合経営を営まれていましたが、2011年7月に牛を連れて白河市に避難。
その後、福島市飯野地区に移転して畜産(肉用牛の繁殖、肥育)を営んでおられます。畜産だけは、震災前から途切れずに続けておられるとのこと。
3年前まで区長を務められ、この地区の営農再開構想づくりをリードして来らた方です(地区の状況は深刻とも言えますが、山田さんの語り口は明るく、しばしば会場は笑いに包まれました)。
営農再開のイメージ図と空中写真を配って下さいました。
「地区の水田は60ha。うち20haはソーラー発電施設に転用しているが、残りの40haを何とか荒らさずに後世に残したいと思い構想を練った。そのひとつが水田放牧。現在、6頭を試験的に放牧しており、放射性物質の移行がないか血液検査を行っている」
「今年3月に避難指示が解除されたことを受けて、戻ってきて営農を再開する人も徐々に増えてきた。他の地区と比べても帰還する人は多い地区だと思う。私自身も今は飯野から通勤しているが、牛舎の建設が終了したら後回しにしていた母屋を修理して帰ってくる予定」
「しかし元の44戸のうち家族全員で帰ってきたのは2軒のみ。高齢者だけが帰ってきたのが4~5軒。後継者がいないために営農意欲を失っている人も多い」
ちなみに山田さんのご子息は、避難中に京都の肉屋さんで修業した経験を活かし、将来は肉屋やレストランもやりたいという意向をお持ちだそうです。
すでに経営委譲されている山田さんは「息子に雇われ農業者年金を受け取っている気楽な身分だ」と笑っておられました。
「今はまだ、みんなで集まったり酒を飲んだりする場所もないが、将来は地域の祭りも復活させていきたい」等と力強く語られました。
その後、ほ場などを見学させて頂きました。
多くのソーラーパネルが設置され、隣接する水田で夏季には放牧が行われているそうです。除染事業の対象でない畦は黒いシートで覆われています。畦そのものが取り払われている区画もありました。
花き農業を営んでおられる高橋日出夫さんのパイプハウスが並んでいます。
この日は高橋さん本人にはお会いできませんでしたが、事前に自由に入っていいと了解を頂いていたそうで、見学させて頂きました。
この日は晴れているものの冷たい風が強い日でしたが、ハウスの中はぽかぽかと快適。
市場出荷の時期はほぼ終了しているそうですが、トルコギキョウやアルストロメリアが咲き残っていました。
この日は冷たい風が強い日でしたが、広々とした水田には陽光が降り注いでいました。
飯舘村の帰還政策には批判的な意見をもつ村民の方もおられます。
しかし、ふるさとの土地を荒らさずに耕し、後世につないでいきたいと熱く語られる山田さんの姿には、素直に頭が下がる思いがしました。
山田さんにお礼の言葉を述べ、一行は道の駅「までい館」へ。
までい(真手)とは、両手を使って丁寧に、手間ひまを惜しまず、といった意味の言葉で、震災以前から飯舘村の村づくりの基本理念ともなっています。
今年8月に開業したばかりの道の駅は、カーレース関係のイベントも開催されていたようで多くの人たちで賑わっています。
内部は木が多用され快適です。壁には、村民の方達の大きな顔写真のパネルが掲げられています。
ふんだんに自然光が入ってくるレストランで、名物というカレーを頂きました。コクのある甘口でボリュームも十分です。
農産物の直売所も併設されており、特産品である雪っ娘かぼちゃ等が並んでいました。高橋さんのトルコギキョウもありました。
一隅には生産者に向けた貼り紙も。放射性物質のモニタリング結果の記載のないものは出品できないそうです。
また、道の駅入り口の黒板には「復興中につき人手が不十分で、レジや料理に時間がかかる場合がありますがご容赦下さい」との手書きの文字。
復興・再生に向けての意気込みが感じられます。
その後は、宿泊体験館「きこり」で入浴し、川俣町の道の駅(シルクとシャモ肉で有名)に立ち寄った後、16時頃にJR福島駅で解散。
新幹線までの待ち時間、駅前で熱燗(奥の松!)とおでんなど。
原発事故に伴う全村避難で有名になった飯舘村については、書籍やメディア等で様々な紹介がされていますが、今回、実際に足を運べたことで印象が変わった部分も多くありました。
今回も貴重なツアーを企画・実施して下さった主催者、事務局の皆さまに感謝申し上げます。