【ブログ】「地域農政未来塾」と、東村山の農業史

全国の町村の連合組織である全国町村会(本部:東京・千代田区永田町)が主催する「地域農政未来塾」は、農業・農村を取り巻く環境が大きく変化するなか、自ら地域の課題に気づき、学び、考え、提案し、そして実行できる町村職員を養成することを目的としています。

 6期目となる2022年度は、全国からの18名の町村職員の方が参加し、計7回の講座やゼミが開かれることとなっています(一流の講師による密度の高い内容です)。

左は全国町村会HP、右は機関紙『町村週報』(2022.6/6号)から。

私は、昨年度に続き、主任講師の一人である榊田みどりさん(農業ジャーナリスト、明治大学客員教授)からの依頼を受けて、農林水産統計の調べ方、使い方についての説明をさせて頂きました。
 上司の許可を得た上で、個人として休暇を取得してのボランティア参加です。
 なお、昨年はオンライン開催でしたが、今回は対面です。

2022年7月22日(金)は猛暑のなか、16時前に全国町村会館へ。心なしか、永田町界隈はふだん以上に警備が厳しいように感じられました。

開講中の榊田ゼミに途中から参加。
 ゼミのメンバーは、岩手、山形(2町)、茨城、熊本の町村職員の5名(女性2人、男性3名)。スポーツ競技や狩猟に取り組んでおられる方も。

私からはスライドを用いて「農林水産統計の調べ方、使い方」について説明。
 「統計とは」から始め、日本の統計の全体像等について説明。日本の近代統計の父・杉 亨二先生は、統計不正が続発している等の現状をどのようにご覧になっているでしょうか。

(図はクリックすれば拡大します。説明資料の全体はこちら

続いて、農林水産統計部のホームページを実際に操作してもらいながら、調べ方、使い方について説明(事務局の方が、一人一台ずつパソコンを準備して下さっていました)。

最初は農(林)業センサスについて。
 実は市町村ごとに表章されている農林水産統計は多くはないのですが、5年ごとに実施されるセンサスは悉皆調査であり、旧市町村や集落ごとのデータも集計・公表されています。

トップページから入り、実際に都道府県の数値(市町村別データ等)をダウンロードするところまで体験して頂きました。

続いて「わがマチ・わがムラ(市町村の姿)」について。
 自分の町村のデータ(一覧表やランキングなど)を探す方法について、(私が住んでいる)東村山市を事例に説明。

そして、このサイトからダウンロードしたデータを加工してグラフ化し、明らかとなった東村山市の農業の特徴(全国と比較して果樹が多い、直売所が多い等)を説明するとともに、SWOT分析にまとめて紹介しました(ゼミ生の方がそれぞれ自分の町村についてSWAT分析をされているのにならったものです)。

総務省統計局「統計ダッシュボード」RESAS(地域経済分析システム)についても入り口だけ説明。ゼミ生の中には、使い慣れていらっしゃる方もおられました。

質疑応答では、統計利用のノウハウにとどまらず、それぞれの地域におかれた現状や課題を踏まえた熱心な質問や意見などが活発に出されました。
 さすが、各町村から選ばれて参加されているだけあって意欲的な方ばかりです(背景には、多忙な職員を東京に派遣する各町村の首長の方たちの熱意もあると思われます)。
 ゼミ生の皆さんの発言には、こちらの方が大いに刺激を受け、勉強もさせて頂きました。

 また、この塾への参加は、他の町村職員の方と意見や情報を交換することを通じて、受講生の皆さん、さらには出身の町村にとっても貴重な財産になることが期待されます。

予定の時間を30分も超過。
 実は、東村山の農業史についても調べていたのですが、統計とは直接関係がないため説明は省略しました。

これは、榊田さんからゼミ生に対して「次回(9月)までに、町村史などを地域経済史と農業の変遷についてレポートをまとめる」という課題が出されているのを踏まえたもので、自分でも地元(現在、住んでいる東村山市)の農業史を勉強したものです。
 ゼミでの説明はできなかった代わりに、ここに備忘として残しておきます。

まずは、郷土関係の資料も充実している東村山市立中央図書館へ(一昨年、急逝された志村けんさんを偲ぶ棚もありました)。

資料編と合わせて10冊以上ある「東村山市史」を棚から引き出し、農業に関係する部分を中心に拾い読み。これがなかなか(農業以外の部分も)面白い。郷土研究会が出版したガリ版刷りの資料なども参考になりました。

今、私が住んでいるのは東村山市恩多町(おんたちょう)。
 40年近く前にこの地の中古住宅を購入したのは、住宅の間に果樹園や市民農園があるといった環境だけではなく、いかにも由緒ありそうな地名(恩多)に惹かれた面もありました。

ところが、この地はかつては大岱(おんた)村、大沼田村などと呼ばれていたとのこと。どうやら荒地や低湿地で農業には向いていなかったのが、江戸時代に野火止用水が開鑿され、新田開発(新「田」といっても畑)されて、ようやく農業ができるようになった土地だそうです。「市史』の口絵には、詳細な絵図も掲載されていました。

 開発の担い手は地元の名主たちで、隣村の荒地も開発したそうです(現在の小平市大沼町はそのことに由来するとのこと)。

廻り田村(現在の廻田町(めぐりたちょう))の名主、田村太郎右衛門についての記述もありました。
 明暦二(1656)年、費用(開拓予定地での家の新築、馬など)は自己負担、不都合があれば追放されても構わない等の条件を自ら付けて、新田開発への参加を願い出たそうです。

『市史』には墓地の宝篋印塔の写真も掲載されていました。お墓の前に立てば、東村山農業の先駆者のお一人の思いを偲ぶこともできるかと思ったのですが、あいにく、場所についての詳しい記載はありません。
 図書館の司書の方に聞いてみると、色々と調べて下さいましたが、やはり分かりません。さらに『市史』を編纂した『ふるさと歴史館』にも照会して下さったのですが、生憎と休館日で担当の方がご不在のようで、改めて連絡を下さる約束をして下さいました。

この日(7月19日(火))は、時おり小雨がぱらつく空模様だったのですが、自ら当たりを付けて自転車で廻田町を訪ねてみました。
 住宅地の間の高台を登っていくと、畑や平地林が広がっています。平地林には「トトロの森56号地」として保全されている旨の看板が出ていました。

さらに山道を進むと、草の茂った向こうにわずかに墓石の上部がのぞいています。葛のつたなどをかき分けていくと、そこが田村家の墓地でした。
 小雨に濡れる二基の宝篋印塔は、江戸中期の夫婦のものだそうです。多くの古い墓石も並んでいます。手を合わさせて頂きました(帰途、図書館に寄って報告とお礼)。

東村山市郷土研究会『東村山の産業 農業のあゆみ』(1987)には、東村山の農業史上「特筆すべき人物」として、何名かの先駆者の方の事績が紹介されています。

横浜開港時に大岱村の水車工場で製粉した小麦を「輸出」した人(水車は野火止用水脇の公園に復元されています)、アメリカに留学しワイン醸造に取り組んだ人、現在特産品となっている「多摩湖梨」など新作物や新品種を導入された人など。
 東村山の農業は、江戸時代から明治にかけて、起業家精神と進取の気性に富んだ多くの先人たちによってかたち作られ、現在の姿になったことが分かったのです。
 「地域農政未来塾」は、私にとっても地元の農業史を知る貴重な機会となりました。榊田先生、有難うございました。

さて、このようにして学んだ歴史の知識を、どのように町村の農業ビジョンに活かしていけばいいのでしょうか。
 ゼミ生の皆さん、榊田先生の指導を仰ぎながら頑張って下さい。