[前半から続く]
カヌー体験の後は、国道58号線をさらに南下して瀬戸内町へ。
まずは古仁屋港の町営フェリー発着所へ直行。予約でき、念願の加計呂麻に渡れることに。
国道を少し戻って高知山展望台へ。コンクリートの展望台を登ると見事な眺望。自由にみられる望遠鏡も設置されています。瀬戸内の島々。海峡の向こうに加計呂麻島が長々と横たわっています。
雨がざあっと降ってきたと思うと、たちまち過ぎて晴れ間が戻って来ます。展望台からは、雨が降っているところとそうでないところが肉眼でも確認できます。
フェリー発着所のあるせとうち海の駅に戻って、昼食。
養殖マグロは国内トップクラスとのことで、美味しい海鮮丼などがいただけます。この日は数量限定の中落ち丼を頂きました。豪華で美味です。
14時ちょうど発のフェリーかけろまに乗船。初フェリー、乗り込むときに海に落ちないかちょっと緊張。
どんどん古仁屋港が遠くなります。市街地の背後には高知山。客室はエアコンが効いて快適です。
25分ほどで瀬相港に到着。古仁屋に比べると小さな港です。
県道を南東方向へ。カーブも急な山道を登り、峠を下ったところに現れた静かな湾が現れました。呑之浦(のみのうら)です。案内表示に従って島尾敏雄文学碑公園へ。
島尾敏雄は、敗色濃い1944年11月、海軍第18震洋特別攻撃隊の指揮官として180人余りの隊員を率いてこの地に赴任し、基地を設営。終戦2日前の1945年8月13日には出撃命令が出されますが、結局、実際に出撃する機会はないまま終戦を迎えました。
ここで小学校教師をしていた大平ミホと出会い、終戦後に結婚し二子を設けます。その壮絶な家庭生活をモデルとした小説が『死の棘』です。
文学碑公園には、小川国夫の碑文や、島尾の代表作の一部を刻した石碑が並んでいます。『出発は遂に訪れず』はミホが清書したもののようです。
一段高いところには「島尾敏雄・ミホ・マヤ ここに眠る」と刻された墓碑。マヤは二人の長女です(2002年没)。
振り返ると、海に続く道が続いています。
浜に降りてみました。驚いたのは、砂浜ではなくとがった小石の浜であることです。
ミホは、出撃命令が下ったと聞いた8月13日の夜、浜を辿り、岬をめぐり、時には岩につかまって海水に洗われながら、敏雄に会いに行きます。手足には無数の傷ができました。跪いて半長靴に頬を押し付けて嗚咽するミホに、敏雄は「ただの演習だから安心して帰りなさい」と諭します。
敏雄と別れた後も、ミホは譲られた短剣を懐に近くの岩壁に残りました。敏雄の隊の出撃を見送った後、自害する覚悟でいたのです。結局、出撃の機会はないまま、終戦の詔勅がこの地にも届きました。
文学碑公園からは、浜辺沿いに遊歩道が続いています。
少し歩くと、震洋の壕の跡が残っていました。映画『死の棘』で使用されたというレプリカが納められています。
ベニヤ板で作られた特攻艇は、実戦でほとんど戦果をあげることはなく、逆に終戦直後には高知県で大きな事故があり、100名以上が犠牲となったという記録が残っています。
呑之浦はあくまで静かで、波もなく、海とは思えません。
壕の前の樹木には、シロジュウジホシカメムシが群がっています。
文学碑公園まで戻ると、小高町議会による蘇鉄の記念植樹がありました。敏雄の両親は福島・小高の出身です。
さらに県道を東へ。加計呂麻島の東端にあるのが安脚場(あんきゃば)戦跡公園。
大島海峡内の旧海軍・連合艦隊の泊地を防衛するために軍事施設で、飲料水のための天水貯水池や弾薬庫跡が遺っています。断崖絶壁の向こうには太平洋が広がっていました。
生間(いけんま)港16時30分発のフェリーで古仁屋港へ向かいます。ここもささやかな港です。近くには『男はつらいよ』のロケ地(リリーの家)もあるそうですが、今回は時間が足らず割愛。
通り雨のためか、海上には大きな虹がかかっていました。
奄美大島本島の最南端近くのホノホシ海岸にも、大きくて鮮やかな虹がかかっていました。
珍しい丸石の海岸で、引き波の際には石が擦れ合ってゴツゴツ、ゴロゴロと大きな音を立てます。
18時過ぎに名瀬のホテルにチェックイン。
出かけるのも億劫で、ホテル内のレストランで夕食バイキング。鶏飯も食べ放題でした。この日はたっぷりと黒糖酒も頂くことができました。美味しくて飲み過ぎ、部屋に戻ってシャワーも浴びずベッドへ。
3日目の14日(木)は、ゆっくりと8時過ぎにホテルを出発。
まずは西へ向かい、大和村の国直海岸へ。真っ白い砂浜、集落のなかにはフクギ並木。快適そうな民宿やゲストハウスもあります。
道を戻って大浜海浜公園へ。奄美海洋展示館は、小ぶりながら充実した水族館。ウミガメの餌やり体験もできます(レタスでした)。
浜には海水浴客の姿も。引き潮の潮だまりのなかには、カニやハゼなど様々な生き物。
名瀬からは、岬を北にぐるりと回って龍郷町へ。
幕末に西郷南洲(隆盛)が流謫された時の住居跡が残されています(個人の所有で、見学するためには事前に電話連絡が必要)。
西郷が妻・愛加那と長男・菊次郎のために自ら土地を探して建てた新居で、文久元(1861年)11月に完成。しかし薩摩藩に単身召喚され、ここで平穏な家庭生活が営めたのはわずか2ヶ月だったとのこと。
菊次郎は後に鹿児島に呼ばれ、新政府の高官にもなりますが、愛加那は終生この地を離れまなかったそうです。
入り口正面には、勝海舟の碑文が刻まれた石碑もあります。
テープに続いて、管理されている方が丁寧に説明して下さいました。
東へ。
途中、立ち寄ったハートロックは近年人気の観光スポットのようで、カップルや女性のグループが列を作って記念撮影の順番を待っていました。
海岸沿いにあるレストランで油ソーメンの昼食。名前と違い、あっさりとして美味です。
奄美パークは、奄美の暮らしの様子がジオラマ等で再現されている施設。
蘇鉄の実を加工する女性の姿も。江戸時代、薩摩藩の支配下に置かれた奄美の農業は、商品作物であるサトウキビ生産に特化させられ、慢性的な飢饉の状態にありました(この後で訪ねた歴史民俗資料館では「黒糖地獄」と表現されていました)。飢饉を避けるために蘇鉄も毒素を抜いて食用とされていたのです。
大画面での原生林などの自然、素潜り漁や祭りの様子などを描いた映像も見事です。
パーク内には田中一村記念美術館もあります。展示室の外観は高倉を模しているようです。
一村は明治41(1908)年栃木生。若くして南画家として知られ東京美術学校に入学するも中退。以後、中央画壇とは一線を画して50歳を過ぎて独り奄美へ移住。紬工場で働きながら、奄美の地の自然や生き物を描き続けました。
しかし、その独特の日本画は世に出ることはないまま、69歳で生涯を終えました(昨日訪ねたのが「終焉の家」です)。
東京や千葉時代の作品も含め、充実したコレクション。
不遇だった一村の生涯が、その時代時代の作品に反映されているようです。
美術館の前庭には様々な植物が植えられ、「一村の杜」として整備されていました(写真はテイキンザクラ)。
少しずつレンタカーを返却する時間が迫ってきました。
あやまる岬では、水平線が毬のように丸いことが目視できます。海を眺めながらマンゴー、グアバのフロート。奄美でも有数のスポットらしく、多くの観光客で賑わっています。
すぐ近くにあった奄美市歴史民俗資料館を見学。
考古資料展示室では旧石器時代から中世までの出土資料を中心に、民俗資料展示室では漁に使われていた船やさとうきびの圧搾用具等が展示されています。
小ぶりながら充実した、分かりやすい展示内容です。こちらは他に見学者はいませんでした。
土盛(ともり)海岸 にも海水浴客の姿。
奄美で最後の訪問地となったのは、宇宿貝塚史跡公園。1986年に国指定史跡となった発掘跡が、そのままの姿で展示されています。
中世の、子どもや母子の埋葬跡。母親が身に着けていたネックレスのガラス珠も展示されています。なお、母子の人骨は先ほどの歴史民俗資料館に展示されていました。
さらに下の地層からは、縄文時代晩期の竪穴住居跡や土器が発掘されたそうです。
学芸員の方が丁寧に説明して下さいました(ここも見学者は私たちだけ)。
奄美地方にはいわゆる弥生時代はなかったそうで、農業が無くても漁労など自然の恵みだけで一定の人口を維持してきた地域は、世界的にみてもまれだそうです。
気が付くと、17時の閉館時間を過ぎてしまっていました。有難うございました。
ガソリンを満タンにして、無事にレンタカーを返却。毎回、ハンドルを離すとほっとします。
飛行機を待つ間に空港ロビーでクラフトビール。オスプレイの緊急着陸というハプニングはありましたが、鹿児島行き18時30分発SKY388便は定刻の出発。満席。乗り継いで羽田空港に到着したのも、ほぼ定刻の22時前。
ぎりぎり間に合ったリムジンバスで所沢へ。夢のような3日間でした。