2021年3月12日(金)は、「Present Tree in ひろの~復興10周年を心に刻むライトアップ&祈りのスカイランタン」の2日目(初日の模様はこちら)。
6時過ぎから散歩。ホテル双葉邸のすぐ目の前は二ツ沼総合公園です。
沼の遠景には東電・広野火力発電所の排気塔。原発は停止しても、福島県が首都圏への電力供給源であることは変わりません。太陽が昇りつあります。
おっと、飲み物の自販機にもひろぼーが。
朝食を頂いた後、8時30分にホテルを出発。
この日は一日、広野わいわいプロジェクトの磯辺吉彦さんが同乗し、案内して下さるそうです(毎回、有難うございます)。
まずは、二ツ沼総合公園のパークギャラリーで開催中の「東日本大震災・原発事故 3.11 広野町アーカイブ展」を見学。
地震と津波被害の様子(わいわいプロジェクトの根本理事長が寄せられた言葉も)、原発事故への対応など。避難所の様子を再現したコーナーもありました。
広野町振興公社の方が、本や映像では知ることのできない現地の状況などを、詳しく分かりやすく説明して下さいました。中央省庁から出向されている方も。
学生など若い人たちが熱心に質問し耳を傾けていました。
遠藤町長の自叙伝『福島・双葉地方・広野町-ふる里復興創生へ』、広野町産バナナ「綺麗」等をお土産に頂きました。
震災と原発事故から10年。居住者数は震災前を上回るなど、広野町は着実に復興し、にぎわいを取り戻しつつあります。
磯辺さんの名ガイドで国道6号線を北上します。
かつて楢葉町の国道沿いには、多くの除染廃棄物入れたフレコンバッグが積み上げられていましたが、今回は全て視界から消えていました。再開されたショッピングモールや住宅分譲地も。除染が進むに連れて更地も増えているようです。
ところが、大熊町の帰還困難区域に入ると光景は一変しました。
国道脇には立ち入り禁止のフェンスが設置されたままで、壊れたままの無惨な姿の住宅や店舗も。
事故を起こした東京電力第一原子力発電所の排気塔やタンクも遠望できました。
国道の右側には中間貯蔵施設の敷地が広がっています。福島県内の除染に伴い発生した土壌や廃棄物等を最終処分までの間貯蔵する施設で、福島県内の除染廃棄物等の75%はすでに搬入済みとのこと。
10時30分頃、広々とした更地の中の大きな建物に到着。ここが東日本大震災・原子力災害伝承館です。
かつて経験したことのない甚大かつ複合的な災害の記憶を継承していくために昨年9月に開館したばかりの施設ですが、「教訓が伝わらない」等の批判も多く、数日前に展示替えがなされたばかりとのこと。
最初に短い映像をプロローグとして見てから展示資料を見学するという順番だそうですが、この日は「密」を避けるために2グループに分かれ、先に展示を見ることに。
震災と原発事故の発生から事故直後の対応、転々とした避難先での生活の様子など、充実した現物資料や模型、パネルが展示されています。短い時間ではとても見切れません。
屋上に上がると、海岸線に向けて広大な更地が広がっていました。一面、津波の被災地です。左手が甚大な被害を被った請戸地区、右手には中間貯蔵のための受入れ分別施設が望まれます。
バスに戻り、双葉駅と周辺市街地を通過。
避難指示が解除されて1年が経過しますが、崩れたままの家屋、傾いたままの電柱など震災の傷跡があらわです。建物の壁にはアート作品も。
バスは大熊町大川原地区へ。
大熊食堂は東電社員寮の併設施設ですが、平日のランチ時は一般利用もできるとのこと。
地域の名物・浜鶏(はまど~り)ラーメンを頂きました。
鶏がらベースのスープに鶏むね肉等がトッピングされ、あっさりとしてコクもあり、美味。
食事のあとは、(一社)おおくままちづくり公社の佐藤亜紀さんが、大熊町の現状等について説明して下さいました。
原発事故直後は役場機能を含めて会津若松市等に全町避難していた大熊町ですが、2019年3月には大川原地区など一部地域の避難指示が解除され、新しい役場庁舎や住宅、商業施設等が整備されているとのこと。つい先日、JR大野駅周辺も避難指示が解除されたそうです。
最新鋭施設での温室イチゴの周年生産・出荷も始まっているそうです。
食堂での説明の後、実際に周辺を歩きながらガイドして下さいました。
敷地も広々とした災害公営住宅や賃貸住宅。電線は地中化されています。近くオープンする商業施設には、かつて大熊町で営業していた懐かしい商店なども入居するとのこと。
説明して下さる佐藤さんの明るい笑顔が印象的でした。
バスに戻り、富岡町へ。
桜の名所・夜ノ森地区は昨年3月に避難指示が一部区域で解除され、ゲートで区切られた帰還困難区域でも除染が進められています。本格的に花見が再開できる日も近いようです。
富岡町の中心部にあるふたばいんふぉへ。民間の福島県双葉郡8町村の総合インフォメーションセンターではす。カフェも併設され、双葉郡の物産やグッズも販売されています。
開設者の平山勉さんの話を伺いました。
高校卒業後に上京し音楽活動をされていた平山さんは、2009年に富岡町にUターンし家業のホテル業に従事(音楽活動も継続)。2011年の震災後は双葉郡未来会議を立ち上げるなど、地域の復興活動を一貫してリードしてこられた方です。
2011年8月、すぐ近くの国道6号線の歩道橋に掲げられて有名になった「富岡は負けん」の大きな横断幕も、平山さんによるものです。
双葉郡の歴史や現状も含め、スライドを使って説明して下さいました。
広野町の遠藤町長が、わざわざ顔を出して下さいました。昨日、広野町の防災緑地でも挨拶を頂きましたが、改めて、都会から来た私たちのために挨拶に来て下さったのです。有難いことです。
遠藤町長、平山さんを前に参加者による今回のツアーの振り返り。
今回は大学生や、浜通りに来たのは初めての人も多く、強い印象を持ったようです。リピーターの方には、この10年間の変化が感慨深い様子でした。
それぞれ特産品などを求めてバスは出発。
帰途、道の駅ならはに立ち寄り。
ここも震災後しばらくは休館し復興拠点として使われていましたが、2019年4月に温泉施設など一部営業再開、昨年6月にリニューアルオープンしたそうです。
地元の名産で金魚の王様と呼ばれる「らんちゅう」が泳ぐ水槽もありました。
17時過ぎに道の駅を出発。
途中、広野町で(なぜか荷物が増えて重たいとぼやく)磯辺さんは下車。今回もお世話になりました。
バスは一路、東京へ。帰路も渋滞もなく順調です。友部SAでの休憩を挟み20時過ぎに東京駅に到着。
2日間、感染防止等で緊張を強いられていた鈴木理事長やスタッフの皆さんも、少しほっとされた様子でした。今回も(今回は特に)お世話になり有難うございました。
今回のツアーで垣間見ることができたのは、復興の「まだら模様」です。
同じ浜通りでも、広野町や楢葉町と、今も帰還困難区域を抱える双葉町や大熊町とでは、人の数など街の光景は全く異なっていました。原発事故の罪深さを改めて痛感します。
ところで、國分功一郎『原子力時代における哲学』によると、1950年代に核兵器のみならず「原子力の平和利用」の危険性を論じた唯一の哲学者がハイデッガーだったとのこと。
地上の生態系を超越した強大な力について、人間が「考えることから逃げている」ことに無気味さと強い危機感を抱き、身近なこと(土着性)に根差した「熟慮」が必要であると主張しています。
世界史上、最悪レベルの原発事故から10年。
果たして私たちは(私自身は)、科学技術や社会のことをちゃんと熟慮できているでしょうか。