【ブログ】東村山~所沢 ぶらり史跡散歩

2021年7月6日(火)も時折り細かな雨が落ちてきますが、自転車でぶらり史跡散歩へ。
 まずは、何度も来たことのある久米川合戦場跡(東京・東村山市諏訪町)。

 元弘三(1333)年五月八日、上野国新田荘の生品神社で新田義貞が挙兵。鎌倉街道を南下し、五月十一日には迎え撃つ幕府軍と小手指ヶ原(埼玉・所沢市北野)で激戦を交えます(後述)。
 劣勢となって久米川まで撤退した幕府軍を、翌十二日朝に新田軍が奇襲して撃破。さらに敗走する幕府軍を分倍河原(東京・府中市)で打撃を与え、ついに五月二十二日、北条高時らが自害し鎌倉幕府は滅亡します。小手指ヶ原の合戦からわずか十四日後のことでした。

 背後の八国山緑地には、新田義貞が陣を置いたと伝えられる「将軍塚」が遺されています。

八国山緑地を北西へと迂回した松が丘住宅地内に位置する公園が、武蔵国悲田処跡。悲田処(ひでんしょ)とは、平安時代に旅行者のために設置された、一時救護所のような施設です。
 豊かな平地林の緑のなかに、遊具等が置かれています。

交通量の多い所沢入間バイパスを北西に向かうと、沿道に曹洞宗の祥雲山瑞岩寺があります。
 ここは桓武平氏の流れをくむ村山党(武蔵七党の一)から派生した山口氏の菩提寺で、本堂の西側に三基の墓塔(欠けた五輪塔や宝篋印塔)があります。

 左側の塔に刻まれている「帰実禅門永徳三癸亥六月十三日」の日付は、同寺に伝わる山口城主(後述)・山口高実の位牌の紀年銘と一致しているとのこと。
 このお寺は高台にあり、眺望が開けています。

アップダウンのあるバイパスに沿って(蒸し暑く、なかなかキツい)、所沢市北野の所沢市立埋蔵文化財調査センターへ。
 所沢市内には166箇所の遺跡があるとのことで、縄文時代の土器などに加え、天然記念物のミヤコタナゴの水槽等も展示されていました。

埋蔵文化財調査センターのすぐ南に、小手指ヶ原合戦城跡の碑があります。
 先述の通り、元弘三(1333)年五月十一日、新田義貞軍が幕府軍(総大将・桜田貞国、副将は長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門)と激突した地。
 30回を越えて干戈を交え、日没までに新田軍三百、幕府軍五百ほどの戦死者を出すという激戦だったと伝えられています。ここから久米川、分倍河原の合戦を経て、たちまち鎌倉幕府は滅亡したのです。

 小高い丘は「白旗塚」。新田軍の本陣跡と伝えられています。

周囲を眺めると、いかにも大軍同士の合戦が行われたにふさわしいような広闊な地。
 ところどころに平地林が残り、その間にはサツマイモ畑や茶畑が広がっています。

砂川遺跡(所沢市三ケ島)へ。所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡(国指定重要文化財)です。
 砂川遺跡都市緑地として整備・公開されており、石器類が集中して出土した環状の住居跡が保存されています。
 雨が落ちてきました。シランの花が鮮やかです。

ここから帰途に当たる南に転進し、山口氏(先出)の居城であった山口城跡(所沢市山口)へ。
 山口氏は保元の乱では源義朝に従い、後に武蔵平一揆に参加して鎌倉公方・足利氏満方の上杉憲顕に攻められて落城。上杉氏が没落した後は後北条氏に仕え、さらに 後北条氏の滅亡後は子孫は徳川氏に仕えたとのこと。この間に、山口城は廃城となったようです。

 賑やかな商業施設や西武鉄道狭山線の線路の間に遺構の一部が保存され、説明板も設置されており、辛うじてここに中世の城があったことを偲ぶことができます。

バス停の名前は「山口城跡」。
 城は滅びて、バス停に名を残す。山口城跡は、地域の方たちに馴染みのあるものとなっています。

20km強、4時間ほどの自転車ぶらり散歩でしたが、意外とアップダウンもあり、時折り雨が落ちる蒸し暑さ。
 いい運動にもなったかも。