【ブログ】ぶらり歴史散歩~立河原合戦跡(東京・立川市)

10月後半というのに、梅雨時のような天候不順が続きます。
 2022年10月18日(火)は、何とか雨は落ちてきそうにない様子。久しぶりの「ぶらり歴史散歩」へ。今回は(も)近場です。

JR立川駅(大都会!)に到着したのは14時過ぎ。
 曇り空の下、南口改札を出て南西方向に歩きます。

(C) Google Map

10分ほどで諏訪の森公園に到着。
 ブランコやすべり台の間に「舊宮趾」の立派な石碑。「弘仁弐年六月弐十七日 勧請信州諏訪大神」と刻まれています。
 すぐ南には(現役の)諏訪神社。なかなか立派な境内です。七五三の家族の姿も。

さらに10分ほど歩いて、この日の目的地である玄武山普済寺に到着。文和二年(1353)の開創で臨済宗建長寺派に属するという名刹です。

 参道の入り口脇には巨大な石灯篭。両側に水が流れる長い参道を進むと、やがて小ぶりながら気品のある楼門に到着しました。

楼門を抜け、太鼓橋を渡った先にある本堂は、広壮な建築物です。

ちなみにこのお寺には、二体の仁王像と四天王像を刻んだ六面石幢(14世紀、国宝)があるのですが、保存修理により拝観停止中との看板が出ていました(残念!)。

本堂に向かって左手には土塁の遺構があり、立川氏館跡の標識が立てられています(お手洗いの看板の方が目立って残念!)。

立川氏は武蔵七党のうちの西党の一支族で、『吾妻鏡』にも名が記されています。
 戦国期には小田原北条氏に従って八王子城に籠り、落城を経て、後には水戸藩徳川家に仕官したとのこと。

本堂の裏手に回ると一気に視界が開けます。
 眼下を見下ろすと残堀川。少し先には(見えませんでしたが)多摩川が流れているはずです。

 ここは、永正元(1504)年に「立河原の戦い」という壮絶な合戦が行われた地。
 関東管領・山内上杉顕定と古河公方・足利政氏らの連合軍を、扇谷(おうぎがやつ)上杉朝良が打ち破った戦です。両上杉氏の抗争を軸に20年近くも続いた「長享の乱」の中でも最も激しい戦で、山内方は二千もの犠牲者を出したと伝えられています。

 これが扇谷上杉氏にとって、最後の勝ち戦でした。
 ほどなく、この時には援助を得た伊勢宗瑞 (後の北条早雲)らの侵略を受け、名家・扇谷上杉氏は滅亡への道を一直線に歩んでいくのです。

残堀川とはかなりの標高差がありますが、本堂の裏手には池もあります。水利には恵まれた地形のようです。
 立川氏館跡を裏手から眺めると、天を衝く銀杏の木が見事でした。

残堀川の方に下っていくと、かなりの標高差を実感します。
 清流沿いの緑道は「詩歌の道」として整備されており、いくつかの句碑が置かれていました。

中野藤吾「川原にかはらなでしこ 咲くもよし 空をうつして水澄むもよし」
 中村草田男「冬の水 一枝の影も 欺かず」

金木犀(二度咲でしょうか)、紫式部、来年に向けてたくさんの種をつけている黄花秋桜などが、目を(嗅覚も)楽しませてくれます。

その土地ごとに固有の歴史があります。鎌倉の北条氏や後北条氏のような「勝者」だけが歴史のプレイヤーではありません。

 例えば、扇谷上杉氏と立川氏。歴史上の重みはかなり違いますが、いずれも現在の多くの人の記憶からは失われてしまっています。
 そんな人々が、どのように、その時代・その場所を生きたのかを想像することは、非常に感慨深いものがあります。