【ほんのさわり259】後藤静彦『ヒヨコに賭ける熱き思い』

−後藤静彦『ヒヨコに賭ける熱き思い』(1996年1月、日本教文社)−
 https://www.kyobunsha.co.jp/product/9784531062799/book.html

著者は1930年岐阜市生。(株)後藤孵卵場社長、日本養鶏農業協同組合連合会(日鶏連)会長等を務められたのち、1999年に没。
 本書は、著者の父親である後藤靜一(しずいち)氏を主人公とする、日本における養鶏業の黎明期からの「半世紀にわたるドラマ」です。

静一氏は1902年、岐阜県の山間部にある旧根尾村(現本巣市)の裕福とは言えない家に生まれ、高等小学校を中退して大阪の薬問屋に奉公に出ました。その時に肺結核を病みましたが、鶏卵の食事療法で快復した経験から、郷里に戻って養鶏を始めることを決意します。
 先輩を訪ねて時には住み込みで教えを請い、同志との研究会を開催するうち、やがて鶏卵の販売と孵化事業を行う会社の責任者を任されることに。その後、戦時中の1947年に独立して現在に至る後藤孵卵場を創業。品種改良を進め、産卵性、抗病性に優れたヒナを供給する事業を始めます。

ところが、1945年には空襲で孵卵場や住宅の全てを失います。静一氏は焼け跡にバラックを建て、「疎開」させていた孵卵器1台で事業を再開。また、戦中戦後は食料事情が悪く、自分たちの食べるものを節約してまで鶏の飼料を確保したというエピソードも紹介されています。

1955年には子息の静彦氏(著者)がアメリカ留学から帰国。集団遺伝学を応用してさらに品種改良に取り組み、経営も安定してきたところに、1962年、突然、ヒナの貿易が自由化され、怒涛のような「青い目のヒナ」の攻勢が始まりました。
 マスコミ等では国産鶏は絶滅するとさえ言われ、後藤孵卵場も売り上げが大幅に減少するなか、メイン銀行から取引を停止されるという苦境に立たされます。しかし静一氏は、アメリカの大企業からの合弁会社設立の申し出を拒否します。日本の風土に合った在来種を守り、さらに品種改良を進めることで、日本養鶏の自主独立の地歩を確保することを目指したのです。
 また、外国産雛が大量に輸入されるようになったことで、今までなかったニューカッスル病等が国内に侵入し、同時にワクチン使用が常態化した状況も描かれています。

鶏卵価格が長期にわたって安定してきた背景には、関係者の方々の並々ならない努力があったのです。
 ちなみに著者は本書の中で「物価の優等生と言われるのは有難いのですが、優等生というのはなかなか儲からないのです」との本音も吐露されています。

現在、採卵鶏における国産鶏のシェアは6%程度に過ぎません(家畜改良センター岡崎牧場)。一方で、国際的な紛争や家畜伝染病により輸入が減少・途絶するリスクが高まっているなか、食料の安全保障の観点からも国産鶏の重要性が高まっています。

(注:人名の「静」の字は正確には旧字体です。)

出典:
 F.M.Letter-フード・マイレージ資料室 通信-pray for peace.
  No.259、2023年1月22日(金)[和暦 睦月朔日]
  https://www.mag2.com/m/0001579997.html
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