2023年2月6日(月)は快晴。立春を過ぎ、東京地方は暖かい日が続いています。
久しぶりの「ぶらり歴史散歩」の目的地は、東京・八王子市の滝山城址です。
滝山城は、大永元(1521)年、武蔵西部の有力国人・大石定重によって築かれた中世の城郭です。
大石氏は木曽義仲の末裔と称し、関東管領・山内上杉氏の重臣として武蔵国守護代に任じられていました。
ところが、天文十五(1546)年の河越城の戦い(河越の夜戦)で上杉氏は北条氏康に完敗、関東の覇権は小田原北条氏へと大きくシフトします。大石氏は氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、家督を譲ることで、事実上、北条氏に服属することとなりました。
そのような関東戦国史のエポックとなった城の址を、初めて訪ねることとしたのです。
JR/西武線の拝島駅に着いたのは11時前。
コンコース南端の一面のガラス窓からは富士山が望めました(駆け寄ってスマホのカメラをかざす女性の姿も)。
駅南口に出て、交通量の多い「陸橋通り」に沿いつつも、なるべく車の少ない脇道を選んで西に向かいます。
「多満自慢」の銘柄で知られる石川酒造の蔵の上には、「立春初搾り」の旗が翻っていました。残念ながら直売所では求めることができず。
千手院に参拝した後、広々とした多摩川を渡ります。
多摩川の河岸段丘上にある法林寺に参拝した後、南に折れ、秋川を渡ります。
秋川、多摩川の河川敷に沿った広々とした高月地区の田園風景のなかを進みます(都内有数の米作地帯とのこと)。ほとんど人と行き交うこともありません。
ひとり「高月ツリー」が、青空に枝を広げていました。
滝山城址公園(滝山城址)の入り口に着いたのは、12時20分頃。
1951年に国の史跡に指定され、都立公園として整備されています。
多摩川と秋川が合流する付近の加住丘陵上にある滝山城址への道は、なかなかキツい登り坂です。振り返ると、多摩川から北西方向の広大な光景が望めました。
大堀切の跡に沿った道を進むと、滝山城のシンボルでもある木造の橋(引橋)が見えてきました。
橋をくぐったところの右手に、本丸址に至る桝形虎口(こぐち。敵の直進を妨げるための構造物)の遺構があります。
虎口を抜けねと平坦な広場に至ります。ここが本丸址で、「史跡・滝山城跡」の石柱があります。
日露戦争以降の戦没者の慰霊を祀る霞神社の社殿が鎮座していました。
さらに進むと金毘羅社があり、その先は切り立った崖の上辺に至ります。すぐ北を流れる多摩川など、青空の下の広大な光景が望めました。
北方(搦手)からの侵入への防御についての説明版も。北西側も深い傾斜になっています。
滝山城主となった大石(北条)氏照は、永禄元(1558)年頃、多摩川、秋川を天然の防御線として活用して城を大改修しました。
その後、数度にわたり侵攻してきた甲斐の武田信玄の軍勢からも、城を死守しました。
先ほどくぐった引橋を渡ると、東西70m、南北100mという広大な中の丸址に至ります。
なお、引橋は、敵が攻めてきた時に本丸の方に半分程度引き込むことができる構造になっていたそうです。
中の丸址の広場には、街歩きサークル(?)のシニアのグループの姿。平日の昼間でしたが、地元と思われる男性や、若いカップルも散策を楽しんでいました。
紅梅は、早や盛りを過ぎています。
ここにも立派な説明パネルがあり、リーフレットも置かれていました。
関東随一の規模を誇り、遺構も保存状態が良いことなどが詳しく説明されています。
角馬出しを下り、大手口(バス停)に向かう堀底の道を進むと、右手に広い平坦地が現れまかす。
ここが千畳敷で、説明板によると、城下の民が年貢を納めに来る政庁が置かれていたそうです。
さらに下った右手には小宮曲輪址。有力家臣であった小宮氏の屋敷があった場所とのこと。
ここから道を少し戻ると、右手にあるのが三の丸址。コの字型の土橋の遺構もあり、空堀の底からはかなりの高低差があります。
二の丸址の下まで戻り、右に折れた先にあるのが「行き止まりの曲輪」。
両端が狭い土橋となっており、寄せ手側を防御する巧妙な構築物になっているそうです。
さらに西の方向に向かうと、信濃、刑部、カジノ屋敷址が連なっています。防御上の唯一の弱点であった尾根筋に、有力家臣の屋敷を配置していたのだそうです。
気持ちのいい尾根道をさらに進みます。次第に下っていきます。
やがて国道16号線に当たりました。大型トラックなど、すごい交通量です。拝島橋の途中からは、広々とした多摩川の左側(右岸)に、下ってきたばかりの滝山城址が望めました。
かつては現在よりも流量も多かったことを考えると、正に天然の要害だったことが偲ばれます。
普明寺大日堂や日吉神社に参拝して、15時前に拝島駅に戻ってきました。
ちなみに後で確認すると、歩行距離は約15km。自宅発着で3万歩弱。
少々、歩き過ぎでのどが渇いたので、駅前でビール、ラーメンと餃子。これだけぶらぶら歩いてもダイエットにつながらない原因は、明らかです。
期待していた以上の規模。遺構も良好に保存されており、中世における関東有数の城郭の址を堪能できました。
その後の滝山城。
甲斐武田氏や越後上杉氏の侵攻が続き、氏照は天正十五(1587)年前後に、より防御力が高い八王子城(元八王子町等)を築き本拠を移します。
さらに、天正十八(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、滝山城でも多くの将士が討ち死にし、落城したと伝えられています。