【ブログ】ぶらり歴史散歩(鎌倉・比企谷など)

2023年6月24日(土)。梅雨時らしく蒸し暑い日が続きますが、この日は雨にはならないとの予報。鎌倉へ日帰りぶらり散歩へ。

 昨年のNHK大河ドラマ(今年のは私には今イチだな~)で鎌倉初期の凄惨な歴史を知り、史跡巡りをしたいと思い続けていたところ、コロナ禍も収まり、ようやく1年ぶりに念願が叶いました。

お昼前の江ノ電藤沢駅は混雑。
 それでもGWの時のニュース映像のように恐れていたほどではありません。聖地巡りらしい女子高校生達も(鎌倉高校前で降りていきました)。

和田塚駅で下車。南へ徒歩数分、住宅地のなかの一段高くなっている一画が和田塚です。
 中央にある「和田一族戦没地」の石碑は少々傾いており、その左にある「和田義盛一族墓」は左上から右下にかけて亀裂が入っているのが修復されています。

 説明板には「建保元(1213)年、鎌倉幕府の内部抗争による和田合戦の結果、敗死した和田一族の屍を埋葬した塚」とありますが、ドラマによると(おそらく史実も)北条方の一方的な挑発・言いがかりによる合戦だったようです。 

狭い路地を東に数分歩くと、鶴岡八幡宮に続く若宮大路の一の鳥居近くに出ました。この辺りが畠山重保邸跡とされています(鎌倉は土地が狭いため、史跡等の密度も高い地です)。
 この地に残る宝篋印塔が、重保の墓塔と伝わっています。

 重保は、武蔵武士の鑑とも賞された畠山重忠の長子。北条時政の娘婿・平賀朝雅との確執から謀反を疑われ、元久二(1205)年六月に討たれます。わが子が殺害されたことを知らずに少人数で鎌倉へ向かっていた父・重忠も、武蔵国二俣川(現 横浜市旭区)で北条義時の大軍と闘い戦死します。

北条氏は、鎌倉幕府創設に大功のあった有力御家人たちを次々と粛清し、独裁体制を確立していったのです(ダークサイドに落ちていく北条義時を演じる小栗旬が印象的でした)。

厄除け開運の神社として知られる八雲神社に参拝(連敗脱出を祈願するもご利益は得られず)した後、衹園山ハイキングコースへ。

2019年秋の台風15号の被害で通行止めだったのが、本年4月に復旧(全線開通)したばかりとのこと。
 標高100m未満の低山と侮っていたのが大間違い。最初から急登です。
 息を切らして到達した祇園山展望台は、360度の眺望という訳ではありませんでしたが、相模湾や稲村ケ崎が望めました(江の島は霞の中だったようです)。

尾根道も、決して平たんではありません(ぜえぜえ)。
 特に妙本寺に下る道は、急坂で大きな段差もある上、粘土質で何度も滑りそうになります。腰を低くして木の根をつかみ、恐る恐る下っていく横を、子ども達が歓声をあげながら登っていきました。

木立の間に大きな屋根が見えてきました。ようやく普通の(?)山道に出て下ると、そこが妙本寺の境内でした。
 改めて祖師堂を見上げると、広壮な建築物です。写生大会なのか多くの方の姿もあり、平和な光景が広がっています。

祖師堂に向かって右手の山腹には、多数の古い墓石や石塔がありました。墓碑銘には「比企能員公一族之墓」とあります。
 比企能員(ひき よしかず)は、武蔵国比企郡を地盤とする鎌倉幕府の有力御家人。二代将軍・源頼家の乳母父となり、さらに娘が嫡子・一幡を産んだために権勢が強まることを警戒した北条時政・義時父子により、建仁三(1203)年九月、六歳だった一幡も含め、一族もろとも滅亡させられます。
 なお、この時の追討軍には、後に北条に粛清される和田や畠山も加わっていました。

 大河ドラマでは、北条にとって代わろうとする能員の強い野望が描かれていましたが(佐藤二朗の怪演は見事でした)、司馬遼太郎が記しているように「比企氏はさほどに政治好きではなかった」(『三浦半島記-街道をゆく42』)のであるとすれば、この事件(悲劇)も、主導権の確立を急ぐ北条方の過剰で一方的な思い込みから生じたのかも知れません。

比企一族が住んでいたこの地は、現在も比企谷(ひきがやつ)と呼ばれています。
 生き残った能員の遺児は後に日蓮の弟子となり、この地に供養のための堂を建てて日蓮に寄進したのが、妙本寺の始まりだそうです。

その日蓮の辻説法跡が、交通量の多い小町大路に出て右折し、少し北に進んだところにありますした。
 さらに北にある東勝寺跡は、北条氏終焉の地。最後の十四代執権・高時の「腹切りやぐら」への道は通行止めでした。権勢を誇った北条氏も、元弘三(1333)年、新田義貞らの鎌倉攻めにより、一族郎党以下870余人とともにこの地で自害したと伝えられています。

その北にある宝戒寺は、滅亡した北条氏の霊を弔うために、後醍醐天皇の命により足利尊氏が建立した寺。歴代執権の屋敷があった地で、萩の名勝地としても有名です。
 この日は護摩供が行われていました。

車の渋滞の激しい大きな通りを避けて、狭い路地を西へ辿ります。鎌倉は、一歩脇道に入ると本当に道が狭くなります。慣れない観光客か、曲がり切れずに立ち往生している車も。
 若宮大路を渡って小町通りに入ると、ものすごい人、人。レンタル浴衣の外国人観光客のグループも。

喧騒から逃れるように、JRの踏切を渡って扇谷(おうぎがやつ)地区へ。
 狭い坂道を登り、この日の最後の目的地である鎌倉歴史文化交流館に到着。白い紫陽花が見事です。閉館(16時)の40分前でした。

 常設展示室の入り口には、畠山重忠が奉納したと伝わる赤糸縅大鎧のレプリカ。実物(国宝)は武蔵御嶽神社にあるそうです。
 古代から現代までの通史をわずか3分半で描く映像は、ちょっと短かすぎて物足りませんでした。
 鎌倉のジオラマに映像を投影するプロジェクションマッピング、頼朝が建立し室町時代に焼失した永福寺の出土品や再現CGなど、興味深い展示が数多くあります。 

夕刻のJR/江ノ電の鎌倉駅は混雑していましたが、危惧していたほどではありませんでした。鎌倉は何度来ても、見たいところが尽きることはありません。