【ブログ】ぶらり歴史散歩~岡山路(2/2)

前回から続く。)
 1日目の岡山城等に続いて、2023年8月21日(月)の午前中は電動アシスト自転車を駆って岡山市の東部へ。目指すは明禅寺城址です。

途中、百間川に沿って進みます。
 広々とした河川敷ですが、実は江戸時代の初期、岡山城下をたびたび襲った洪水を防ぐために、池田光政の命により築造された人工河川です。

やがて操山(みさおやま)の山裾に至ります。古立石不動明王の趣のある小さな鳥居と社が、巨石の前に佇んでいます。
 さて、目的地の明禅寺城址は、GoogleMap様によると盲学校脇の山道を上った先にあると表示されていますが、終点まで行っても城址に続く登り道は見当たりません。空堀の遺構のような地形が見られますが、自然のものかもしれません。
 どうやらGoogleMap様は、目的地に最も近い道路の終点を表示するものの、そこから先(登山道などの道順)は考慮されていないようです。

山際をぐるりと回って、沢田山恩徳寺へ。立派な山門や大師堂。
 ネット情報によると、境内から城址への登山道があるとありますが、案内板等は見当たらず。
 すぐ先の操山公園里山センターに立ち寄って尋ねてみると、地図を示して丁寧に説明して下さいました。やはり、ネットよりも人の方が頼りになります。恩徳寺や里山センターのすぐ上が城址のようです。
 教えてもらった登山道の入り口まで行ってみましたが、猛暑でもあり、登城は断念。近隣には古墳なども多く、ハイキングコースとなっているようで、涼しくなってから再挑戦したいと思います。 

実はこの辺りは、岡山の戦国時代の画期をなした地です。
 永禄十(1567)年、毛利氏の支援を受けて備前への侵攻を試みる備中松山城主の三村氏を、宇喜田直家はこの地で迎え撃ち大勝します。この明禅寺合戦により三村氏は衰退(「明禅寺崩れ」)、宇喜多氏は備前における実質的な覇権を確立したのです。
 城址には到達できなかったものの、歴史の転換の舞台に立てたと思うと感慨深いものがありました。

その日の夜は、ライトアップされた西川緑道公園の近くにある農業高校レストランへ。
 食材には、岡山県に8校ある農業高校(農業科等がある普通高校を含む)の生徒や卒業生が育てた野菜等がふんだんに使われているとのこと。料理には、生産した高校名等が記されたカードが添えられています。肉詰めのピーマンは有機JASも取得しているようです。
 いずれも美味しく頂きました。ここはおススメです。

翌22日(火)の午前中は、北に向かいました。
 法界院に参拝した後、JR吉備線に沿って北に向かうと、やがて左手に小さな丘が見えてきました。案内標に従い、コンクリートで舗装された歩きやすい道を登ると、15分ほどで山頂(本丸跡)に到着。

説明板によると、城主の須々木(薄)氏は埼玉・小鹿野の出自。源平合戦時の功によりこの地を与えられ、国人領主化し三村氏に仕えていたとのこと。明禅寺合戦で三村氏が大敗したのちは宇喜田氏に降伏したものの許されず、城は破却されたそうです。
 本丸跡には須々木一族の墓地と、小さな神社。振り返ると、旭川の雄大な流れが望めました。

続いて龍ノ口城址を目指します。
 備前西半国を支配していた松田氏の有力家臣・穢所元常の居城で、永禄四(1561)年宇喜多直家の謀略により落城しました。

 GoogleMap様に沿って旭川沿いを北上し、大原橋を渡ります。
 城址と思われる急峻な山の裾を旭川が巻き込むように流れており、天然の要害であることが分かります。渡し場もあり、交通の要衝だったそうです。

ところが、やはり城址への登山道は見当たらず、ネットの情報を基に引き返し(かなりの距離ロスにはなりました)。下流の中原橋を渡ると、池田光政公 御涼所跡との説明版。江戸時代は川沿いということだけで涼をとれたのでしょうか。

 龍ノ口八幡宮の参道入り口には鳥居。その脇の城址への表示標に沿って、ごつごつと岩の露出した登山道を10分ほど歩いてみました。左側からは旭川のせせらぎが聞こえますが、樹木が繁茂していて眺望はありません。
 後ろから追いついてきた女性の方(服装も靴も万端です)に聞いてみると、まだかなり距離もあり、途中、急傾斜の岩場もあるとのことで、あっさりと断念。
 ここも涼しくなってから再挑戦してみます。

備前国総社宮の社殿は小ぶりで、山と青空を背景に清楚に佇んでいました。
 近くの流れの脇には、祇園大樋との説明板。
 元禄五(1692)年、岡山藩の重臣・津田永忠が、新田の灌漑用水を確保するために築造した分水樋とのこと。 

明禅寺合戦の戦死者の首塚もありました。
 この戦では一万数千人が戦死、激戦が展開された操山周辺には多数の首塚がありましたが、戦から約300年後の弘化二(1845)年、地元の大庄屋が霊を慰めるためにこの地に建立したそうです。

 国道96号線沿い、百間川の堤防近くには中島城址。
 中島氏の城址にあった地蔵堂が、道路整備に伴ってこの地に移設されたとのこと。明禅寺合戦当時の当主は三村方について犠牲となったそうですが、子孫はその後、宇喜多、池田氏に仕えたそうです。

 神宮寺山古墳は、国指定の前方後円墳。頂上には小さな神社があります。
 古代に吉備王朝が栄えた岡山県は、全国的にも古墳の数の多い地としても著名です。
 最後に明善寺に参拝して、この夏のぶらり散歩は終了。

ランチは、岡山大学農学部近くにあるJテラスカフェへ。
 もちろん、こんなお洒落な施設は在学中にはありませんでした。駐輪場所が離れているのはちょっと不便ですが、野菜たっぷりランチBENTO(豚しゃぶ・柚子胡椒ごまだれ)は美味でした。ここもおススメです。

(付録)
 ちなみに20日(日)は、日帰りで故郷・徳島へ。
 両親の墓がある興源寺(徳島市下助任町)は、徳島藩主・蜂須賀家の菩提寺でもあり、歴代藩主等の墓所は国指定史跡になっています。

家祖・小六正勝(左)、藩祖・家政(中央)の墓は、後代の歴代藩主に比べれば小ぶりです。
 お昼は駅前で徳島ラーメン。これも美味でした。今年も夏痩せとは無縁のようです。