関東大震災から100年目に先立つ2023年8月29日(火)、東京・世田谷の芦花公園を訪ねました。
熊本・水俣生まれの徳冨健次郎(蘆花)は、明治二二(1889)年に上京してベストセラー作家として活躍、同四十(1907)年二月、農的生活にあこがれて青山から東京府北多摩郡千歳村大字粕谷(現・世田谷区粕谷)に転居しました。
その時の生活の様子は、随想集『みみずのたはこと』に綴られています。
残念ながら岩波文庫版は絶版となっていますが、幸い、青空文庫で読むことができます。掲載されている写真をみると、当時の千歳村粕谷は純農村地域だったことが分かります。
(なお、一般には「蘆花」(ろか)という雅号で知られている徳冨健次郎ですが、『みみずのたはごと』は本名で出版されています。)
健次郎の旧宅は、周辺の土地と合わせて都立 蘆花恒春園(芦花公園)として整備されています。
15時過ぎに京王線・八幡山駅から徒歩で向かいましたが、暑い、暑い。青空に百日紅。
駅前は賑やかな商業施設、途中の一帯はマンションなど住宅街で、写真のような農村地帯の面影は全くありません。
10分ほどで公園の入り口に到着。
鳥居の前に、太い杉の切り株がありました。『みみずのたはこと』に「わかれの杉」として描かれている杉の木です。
健次郎は、訪ねてきた多くの人をここで見送りました。元陸軍軍人の若い友人との別れが、すなわち死別になったというエピソードも記されています。
三代目がすくすくと幹を伸ばしていました。
鎮守社である粕谷八幡宮は、当時は「草葺の小宮」で、「田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る」と記されていますが、現在は交通量の多い車道に面し、農地や水路は全く見当たりません。
子ども達が野球で遊んでいる広場の脇を通って(暑いのに元気だな~)、旧宅へ。
一番手前にあるのが、「茅屋」との案内板が掲げれている母屋です。
『みみずのたはこと』には、転居当初は「風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫の木 にしばりつけた土間とも十五坪の汚ない草葺の家」で、麦わら屋根は腐りかけ、荒壁はぼろぼろ崩れ落ちたと描写されています。家の前は麦畑、裏は雑木林だったとのこと。
転居先を探していた健次郎は、もともと「千歳村にあまり気がなかった」そうですが、「此れで我慢するかな」と思い、ここに決めたという顛末も記されています。
建物の中は、靴を脱いでスリッパに履き替えて自由に見学することができます(写真撮影は禁止)。
建て増した浴室や女中部屋。後に古家を購入して移築した二棟の書院とは渡り廊下でつながっています。執筆に使った大机等も残されていました。
『みみずのたはこと』には、広くなった居宅について「村の者は粕谷御殿なぞ(と言って)笑って居る」と、自慢げに記されています。
建物を出て、敷地内をゆっくりと回りました。
母屋の隣の梅花書屋は明治四一(1908)年、奥の秋水書院は四四(1911)に移築されたもの。秋水書院は、大逆事件で幸徳秋水が処刑されたことを銘記すべく名づけられたそうです。
秋水書院の前には、小さなお地蔵さまが鎮座していました。
『みみずのたはこと』には、植木屋が八王子の古い農家の墓地から買ってきたもので、大震災と翌年の地震で倒れて無惨にも頭が落ちたとのを、「私共の身代りになったようなものとして、身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました」とあります。
現在は修復され、屋根も設けられていました。
空調の効いた蘆花記念館(1961建設)には、作品、原稿その他の遺品などが展示されています。年譜や写真パネルなどもあります。
ロシアにトルストイを訪ねた際に「農業で生活することはできないかね」と訊ねられたことが、農的生活を始めることにつながったとの説明もあります。
『みみずのたはこと』の初版本等も展示されていました。
「晴耕雨読」と題された、鍬を持つ健次郎の写真パネルには、「人間は書物だけでは悪魔に、労働のみでは獣になる」「大いなるかな、土の徳なり」「農は神の直参である」等の健次郎の言葉が記されています。
隣接するサービスセンターには、おびただしい数のセミの抜け殻が置かれていました。
ここで記念館に展示されていた『徳冨蘆花生誕150周年図録』と、建物や碑文を解説したA3版の説明ペーパーを求めさせて頂きました。係りの方から300円程度を募金箱に入れて下さいと言われましたが、小銭が無かったこともあって千円札を投入(すっかり小銭を持ち歩かなくなったな~)。
説明ペーパーはストックが無かったようで、その場でカラーコピーして手渡して下さいました(資料館には「モノクロであれば無償配布します」とあったのですが)。
しかも、歩き始めると係りの方が後から追いかけて来て、表面しかコピーしていなかったのでと裏面のコピーを下さいました。親切にありがとうございます。
母屋の裏手には、健次郎の死後に居宅や土地の一切を東京市(当時)に寄付した愛子夫人のために建てられた居宅も残されています。
公園内には、ご夫妻の墓もあります。
健次郎は昭和二(1927)年九月に療養先の伊香保温泉で死去(58歳)。愛子夫人は同二二(1947)年死去(74歳)。
死の間際に和解した兄、蘇峰による碑文が刻まれています。
駅に向かう途中にあった世田谷文学館に立ち寄ってみました。健次郎関係の資料があるかと思ったのですが、コレクション展示室は点検中。
企画展「石黒亜矢子展 ばけものぞろぞろ ばけねこぞろぞろ」が開催中でした。
色彩豊かでユーモラスで不思議な生き物たち。表情も生き生きとしています。一人で来ている若い女性などで賑わっていました。
帰途は芦花公園駅へ。
実は東京特別区のうち、世田谷区は練馬区に次いで農地が残っている区なのですが、やはり駅に向かう途中には農地は見当たりませんでした。
『みみずのたはこと』にも記されているように、関東大震災の時には地元の若者たちが牛車に野菜等を満載して都心に支援に向かったという千歳村ですが、実は健次郎存命の頃から、都市化の波は押し寄せつつありました。
このことを健次郎は「東京が日々、大股で攻め寄せる」等と表現しています。
転居7年目の大正二(1913)年には京王電鉄が開通。その前後から地価は騰貴し、「電鉄の先棒」となって土地を売ろうとする者とそうでない者との間での分断の様子についても記されています。
健次郎は電鉄会社が畑の中に立てた展望台に登り、辺りを見渡しながら嘆きます。
「真の農にとって、土はただの財産ではない。命そのものである」「都会が頭なら、田舎は臓腑ではあるまいか」「田舎は、都会を養い、都会のあらゆる不浄を運び去り、新しい生命と元気を都会に注ぐ大自然の役割を務めている」「都会と田舎は一体である。都が田舎を潰す日は、都自身の滅亡である」
健次郎の言う「都会と田舎のこの争い」の勝者がどちらかであったかは、現在の芦花公園周辺の姿をみれば明らかです。
都会の「攻勢」は、現在もさらに続いています。
その首都直下で大地震が起こる確率は、今後30年間で70%とされています。