【ブログ】分からなくなったら現場に出て聞け(宇井純さん)

2020年12月8日(火)は好天。自宅からほど近い東村山市の北山公園へ。
 公園近くの民家カフェで雑穀とお豆中心のランチ。野菜やミカンは庭先で育てているそうです。窓からは見事な紅葉。

北山公園では、今年は中止された菖蒲祭りの来年の開催に向けて、準備の作業中。
 稲刈りが終わった水田からは、緑のひこばえが旺盛に伸びています。近くの直売所で、ここでとれた新米を購入できました。

 12月11日(金)の夕方は、大崎駅南口で開催されているおおさき二十四節季マルシェへ。今年はコロナ禍の影響で規模を縮小して開催しているそうですが、多くの通勤客等が足を止めています。
 世田谷産のみかんを購入させて頂きました。

そのみかんを携えて向かったのは、東京・神田のNPO法人市民科学研究会(市民研)。
 この日は連続講座「日本の市民科学者-その系譜を描く」の2回目。前回(11/13、高木仁三郎)に続いての参加です(この時も大崎からのコースでした)。

 この日のテーマは「公害と闘った科学者たち-宇井純、田尻宗昭を主にして」。会場参加が7名、オンライン参加が20名ほどです。

 19時定刻に徳宮峻さん(閏月社)のコーディネートにより開会。
 今回も詳細なレジュメを画面で共有しながら、上田昌文さん(市民研代表)の講義が始まりました(以下、文責は中田にあります)。

「宇井さんによると、1960年代の日本で公害が普遍化・激甚化した背景には、廃棄物処理部門の研究開発を無視、軽視するという日本型資本主義の特質があったとのこと。
 被害者は公害を身体全体で受け止めているのに対し、加害者側の認識は客観的に表現できる言葉や数字の範囲にとどまる。科学者など第三者によっては埋められない根本的な断絶があった。被害者の立場を本当に知るには『こっちに来て一緒に住め』と宇井さんは言っておられた」

「公正中立と確信している科学者も、教科書に載っているような権威付けられた説を『正しいもの』として振り回しているだけ。測定された数値のみで捉え、現実に何が起きているかを見ようとしない『上に従順、下に権威』という姿勢があった」

「『この東大こそ科学技術の腐敗を告発する場所としてふさわしい』として、助手という立場ながら、1970年から85年まで『東大自主講座』を開催。学生を中心とした実行委員会も組織され、全国の連絡センター(情報の駆け込み寺)の役割も担った」

「宇井さんの仕事は4つの柱からなる。
 技術者(下水処理の実験と社会への実装)、科学(批判)者(現地を訪ね、水俣病を始め世界の被害者のために尽力)、運動家(大学の中の「解放区」、公害反対運動の相談拠点としての「自主講座」の開催)、環境思想家(水についてのトータルな探求と実践)の4つの柱が、一人の人間のなかに統合されていた」

「公害と科学者との関係(現場の意味)について、宇井さんは、『私は患者を見てしまったから水俣病から逃げられない。何もしないことは加害者になることに等しい』と語っている。権威や中立性を隠れ蓑にし、専門性の中に逃げ込んで加害者を見ない『御用学者』を強く批判し、『分からなくなったら現場に出て聞くしかない』とも」

「科学者の自立のためには、研究は原則として自費で行うこと、本当に大事だと思うことを研究すること、現実の問題と向き合う勇気を持つことが重要であるし、『高い倫理性を持ち、歩きながら考えろ』『私たち日本の科学者は度胸が無い』とも言っている」

「一方で、宇井さんは市民科学の重要性も指摘している。
 いま必要なのは少数のエリートではなく、民衆の中で弱者と貧者に奉仕する知識人の大群であり、体験と直観を重視する生活人。住民運動の強さは歩いた距離の長さに比例するとも」

最後に上田さんは、インタビュー記事の中で宇井さんが引用している川本輝夫氏(水俣病の患者救済運動のリーダー)の言葉を紹介されました。
 『日本人は水俣病だよ。視野は狭くなる。右手と左手でやることがちぐはぐになる。近くが鈍くなって何も感じられなくなる』

ところで上田さんご自身は、宇井さんとは個人的に2度ほど接点があるとのこと。
 最初は1960年代の学生の頃に公害輸出に反対する運動に参加されていた時。宇井さんが沖縄に行かれる直前で、このグループも自主講座の中から生まれたものだったとのこと。
 もう一度は、宇井さんが亡くなられる(2006年、74歳)3年ほど前のある研究会の場。高齢ながら、自ら助成金を申請して研究を続けておられる姿に感銘を受けられたそうです。

ここまでの説明で8時30分。
 結局、田尻宗明さんについては触れることができず、次回以降で取り上げることになりました。

会場及びオンラインの参加者との間で質疑・意見交換。
「現在の学会等でも、宇井さんが重視していたような価値の浸透や多様化が必要ではないか」「前回の高木仁三郎もそうだったが、企業勤務の経験があったことが大きかったのではないか」
「福島原発事故も、被害者と加害者の関係など、公害と同じ構図であることが理解できた」
「新製品開発等の面で、一般市民と企業とをつなげていく活動が市民科学にとって重要」
等の意見が交わされました。

 ちなみに個人的には(この日も一部話題になりましたが)、実家は栃木の開拓農家という宇井さんの、農業に対する思いにも強い印象を受けています。
 「これまで農業は必死に工業のあとを追ってきたが、天候などを相手にして効率を追いかける方が無理。工業の分野の技術者としては、むしろ工業の方が伝統的な農業から学ぶものがある」と書かれています(宇井紀子(編)『ある公害・環境学者の足取り』(亜紀書房、2016)より)。

 終了後、上田さんが持参されていた『公害原論』の原本を手にとって見させて頂きました。
 宇井さんや実行委員会の方々の熱意が綴じられているように感じました。

 なお、次回(第3回)は明年1月8日(金)の19時から「水俣病と医学・科学-原田正純、西村肇を主にして」として開催される予定です。

ところで翌9日(土)と10日(日)は市民研恒例の新年交流会が開催されます。今年はオンラインで、それぞれこだわりの食材や料理等を紹介し合う予定。
 私もおススメの食材の入手先について紹介させて頂いています。会員以外の方も参加できますので、よろしかったらぜひ。