2021年4月20日(火)は快晴、今年初の夏日になるとも予報も。
渋沢栄一を主人公とした大河ドラマが放映されていることもあり、久しぶりに顔振峠(かあぶり、こうぶり)峠を訪ねることに。
西武池袋線・吾野(あがの)駅に着いたのは10時26分頃。ちなみにここから先は「西武秩父線」になります。
秩父街道沿いの旧吾野宿の街並み。古民家を改修したゲストハウス・カフェレストランもあります。
少し戻って高麗川を渡り、バイパスをトンネルでくぐって顔振峠に向かう道へ。
しばらくは舗装された道。流れ出る沢水にコップが置かれています。
やがて林の中の明るい登山道へ。苔むした倒木。
シャガの群落もあります。山つつじ、山桜なども目を楽しませてくれます。
30分ほど歩いて峠が近づいてくると、眺望が開けてきました。
見事な眺めです。
武甲山、大持・子持山、子の権現、天目山、棒の折、御岳山など。空気が澄んでいれば富士山も望めるそうです。
立派な堂宇の摩利支天堂。山桜の花びらが風に流されてきます。
かつて源義経が奥州へ逃れる途中、あまりの絶景に何度も振り返りながらこの峠を登ったことが、顔振峠という名前の由来ともされています。
摩利支天堂の脇を過ぎてすぐ、斜面に張り出すように平九郎茶屋がありました。
軒先におられたお婆さんと目が合い、いらっしゃいと声を掛けられ、そのまま店内へ。大きな窓からも眺望が楽しめます。
正午前です。手打ちの盛りうどんと、今朝、採ってきたばかりという山菜の天ぷらを頂きました。もし都心で食べられるなら、いくらお金を払っても惜しくはないほどの美味しさです(散財(山菜)だけに)。
隣のテーブルでは一人の男性が美味しそうにビールを飲んでいましたが、下りの山道が残っているので、ここはガマン!
茶屋の名前に冠されている渋沢(尾高)平九郎は、栄一の妻・千代の弟で、栄一の渡欧を機会に見立て養子となっていました。
幕末から明治へ移行する激動の時期、平九郎は、兄の尾高惇忠、従兄弟の渋沢成一郎(喜作)らとともに、上野の彰義隊から分かれた振武軍に参加していました。そして慶応四(1868)年5月、埼玉・飯能で新政府軍と戦って敗れ(飯能戦争)、平九郎は単身、顔振峠を越えて故郷(現在の埼玉・深谷市)を目指したのです。
下の写真は、昨年10月、振武軍が本営を構えた能仁寺を訪ねた時の写真。この日も見事な青空でした。
食事を終え、茶屋の横からしばし絶景を眺めました。
見飽きることはありませんが、この日は見納めです。
12時20分頃、案内図を確認してから、反対側(黒山バス停方面)に下ります。平九郎がたどったと思われる道です。
植樹された針葉樹の中の山道。沢にはそのまま残されている倒木も。
一昨年の台風19号はこの辺りにも大きな損害を与え、現在も通行止めとなっているままの林道等もあるそうです。
山道を下り切って、越辺(おっぺ)川に沿った県道に出たのは13時前。
しばらく歩くと、川沿いに「渋沢平九郎自決の地」の碑と説明板がありました。この地で新政府軍の斥候隊と遭遇した平九郎は、孤軍奮闘の末、路傍の石に座して自決したとのこと。
21歳の若さでした。なかなかのイケメンだったようです。
新緑を映すせせらぎが、目と耳に心地よく感じられます。
さらに10分ほど歩いて全洞院に到着。
自決した渋沢平九郎の首は越生の街中で晒された後に法恩寺に、胴体はこの地に葬られました。その墓石が遺されています。
2017年10月、地元の郷土史家の方に案内して頂いた時(この時、渋沢平九郎のことを初めて知りました。)は、雨が降っていたこともあり寂しい雰囲気でしたが、今は駐車場に大きな標識が立てられ、幟も並んでいます。ご家族や単身バイクで訪ねてこられた方の姿も。
説明板によると、明治七年(1874)、骸は首とともに上野の渋沢家墓地に改葬されたとのこと。また、渋沢栄一は2度にわたってこの地を訪れているそうです。
向かいにある熊野神社前から13時35分発のバスに乗車。1日7本しかないバスの乗客は私一人。しかも越生駅まで行かない便だったため、途中から駅まで歩くことに。
抜けるような青空に緑の山が美しく生えます。藤の花も。
およよ(古いな)、トリケラトプスが郵便ポストの列を率いています(解体業者さんかな)。
交通量の多い県道を40分ほど歩き(暑い!)、越生駅に着いたのは14時半頃。
2020年に新設された総合案内所では渋沢平九郎のパネル展示等が行われていました。
駅前広場には、越生ゆかりの太田道灌公の銅像も。
平九郎のうちわ、梅チューハイなど買って14時47分発の東武線に乗車。短い旅でしたが、渋沢平九郎の足跡を辿ることができました。
大河ドラマで平九郎がどのように描かれるか、楽しみではあります。