【ブログ】ぶらり歴史散歩~松山城址(埼玉・吉見町)

2023年2月21日(火)は快晴。もっとも前日ほどの暖かさはなく、やや強い北風が吹いています。
 今回のぶらり歴史散歩は、前回の滝山城址(東京・八王子市)に続いてお城址へ。
 正午過ぎに東武東上線・東松山駅で下車。東に向かって歩き始めます。

バス通りの左手に静かな池。下沼公園といい、桜の名所だそうです。
 公園内から続く遊歩道をさらに東に向かい、交通量の多い国道407号をまたぐ歩道橋の上からは、松山城址(国指定史跡)の全容を望むことができました。
 こんもりと樹木に覆われた小山(というか、丘)で、さほど比高もないようです。

城の西側を南から北へめぐるように、ゆったりと市野川が流れています。
 (一社)東松山市観光協会のHP及びパンフレットに掲載されている航空写真をみると、松山城は市野川が形成した低湿地帯に突き出すような平山城であり、市野川は天然の堀として機能していたことが分かります。

東松山市観光協会のHPより。右の写真の黒丸数字は写真に対応。

川を渡って右に折れると、間もなく「史跡 松山城跡」の説明板がありました。

 広かつな関東平野の中央部に位置する要衝で、鎌倉時代末期には新田義貞が陣を置いたという伝承もあり、応永年間(西暦1400年頃)に扇谷上杉氏に仕えた比企地方の有力豪族・上田氏が築城したとのこと。
 天文から永禄年間には、さまざまな勢力(両上杉氏、太田氏、甲斐武田氏、小田原北条氏、越後上杉氏等)の華々しい攻防の舞台となり、天正十八(1590)年、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら秀吉軍により落城。
 その後、江戸時代には一時松平氏の居城となったものの、やがて廃城となったそうです。

右の写真は➊の部分。

案内図(これも東松山市観光協会のHPに掲載されています。)をざっと頭に入れてから、石段を登り始めました。

いきなりの急坂です。遠望した時には、これほどの急傾斜とは想像できませんでした。
 息が切れそうになったころ、目の前に平坦地が広がりました。本曲輪跡です。

登り始めの急坂(➋)と、本曲輪跡(➌)。

ここにも詳しい説明板が設置されていました。
 かなりの広さがあり、一面、枯れた落ち葉に覆われています。歩くとかさかさした音が心地よく感じられます。

本曲輪跡(➍、➎)

右奥の隅には、大きな板碑が倒れたままに放置されていました。
 本曲輪から二ノ曲輪の間には空堀。ここもかなりの傾斜で、落ち葉で滑りそうです。

放置されている板碑(➏)と、本曲輪から二ノ曲輪に向かう道(空堀、➐)

空堀を登り切ったところが二ノ丸曲輪跡。ここもかなりの広さがあります。

二ノ曲輪跡(➑、➒)

二ノ曲輪の先は、さらに急傾斜の石段になっています。通行注意の警告の表示があり、おっかなびっくりと下っていくと、確かに途中でらぐらしている石がありました。他人の目を気にせず、腰を落として慎重に降りていきます(マニアの方か、3人ほどの男性とすれ違いました)。
 防御力を高める構築物である「馬出し」の遺構もあります。

二ノ曲輪から下る急傾斜の石段(➓)、馬出しの遺構(⓫)。

左に折れると、三ノ曲輪に向かうなだらかな堤の上の道。写真では分かりませんが、両側は切り立った深い空堀となっています。
 さらに左折して、いったん二ノ曲輪跡に戻ります。あくまで、高くて青い空。

三ノ曲輪跡に向かう道の両側は深い空堀(⓬)、青空の下の二ノ曲輪跡(⓭)。

いったん本曲輪跡まで戻り、北方の搦め手門に向かう道を下っていきます。
 兵糧倉も相当の広さがあります。その突端からは、樹々の間から、市野川から東松山市街、奥武蔵の山々までが望めました。

兵糧倉(⓮)と、西方の眺望(⓯)。

さらに下った惣曲輪の明るい道を、根小屋虎口に向かいます。
 右に折れて、空堀の底を再び登っていくと、曲輪四に至ります。ここもかなりの広さ。

虎口に向かう道(⓰)と、曲輪四(⓱)。

空堀を渡った向いは三ノ曲輪跡。どこもかなりの規模があります。左の写真は、三ノ曲輪跡から曲輪四を望んだもの。

根小屋虎口に戻り、右に折れて進むと出口に至りました。振り返ると、西に傾きつつある日を背にした城山の姿。

三ノ曲輪跡から曲輪四を望む(⓲)。出口か振り返った城山の姿(⓳)。

城山の東から南へと半周した後(ここにも別の登山道がありました)、すぐ隣にある吉見百穴(ひゃくあな、国指定史跡)を見学。

岩山一面に無数に開いている穴は、古墳時代後期の横穴墓とのこと。奇観です。
 第二次大戦の末期には、戦局の悪化に伴って地下を掘削して軍需工場が造られたそうです。トンネル内には立ち入りできませんでしたが、休憩所で流されていたビデオでは、多数の朝鮮人労働者が徴用された様子等が描かれていました。
 結局、工事が完了する前に終戦を迎えたそうです。

吉見百穴の頂上からは、松山城址をめぐって流れる市野川、その向こうに東松山市街、さらには奥武蔵や丹沢の山々。うすく富士山の姿も望めました。

城山の山腹の岩をうがつように建てられている岩室観音堂に参拝。
 松山城主が代々信仰し護持していましたが、天正18年(1590年)の落城の際に焼失し、江戸時代に再建したものだそうです。
 洞窟内の88体の石仏。

東松山市内へと戻ります。
 市庁舎の敷地内には、松山陣屋跡の碑と説明板。慶応三(1867)年、前橋藩が比企郡内の飛び地を管理するために大規模な陣屋が置いた跡だそうです。

せっかく東松山まで来たので、駅前の居酒屋さんでビールと名物のやきとり
 鶏肉だけではなく、豚のカシラ肉(コメカミから頬の部位)等も使用されており、辛子味噌とともに頂きます。美味。

最後に、駅の反対側(西口)にある箭弓(やきゅう)稲荷神社に参拝。
 和銅五(712)年創建とされる由緒ある神社に、世界の平穏を祈って今回のぶらり旅は終了です。
 間もなく、ロシアによるウクライナ武力侵攻から丸1年を迎えます。