2023年3月27日(月)。前日までの強い雨は上がりましたが、青空は見えません。
この日は板橋散歩へ。
東武東上線・成増駅で下車したのは15時過ぎ。
住宅街の中を東へ徒歩20分ほど歩くと、宝持寺松月院に到着しました。15世紀半ばに赤塚城主としてこの地を治めた千葉氏の菩提寺です。
境内に奇妙な形の塔があると近づいてみると、何と大砲。幕末の砲術家・高島秋帆が西洋式の砲術訓練を行った際の本陣がこの寺に置かれたそうで、ちなみに高島平の地名は秋帆に由来するとのこと。
道路を挟んだ向かい側の住宅の間には、松月院幼稚園の「なかよしのうえん」がありました。
すぐ近隣には東京大仏(乗蓮寺)。
高さ13mの大仏は、関東大震災や東京大空襲の犠牲者を供養し、平和を祈念するために1977年に開眼されたそうです。
境内には、天保飢饉の供養塔がありました。
天保四(1833)年から同7年にかけての凶作と疫病流行により、全国で20~30万人が犠牲になったとされています。幕府によるお救い小屋が板橋仲宿にも設けられ、その地の死者を埋葬し、その菩提を弔うために建立したものだそうです。
武蔵豊島氏の一族であった板橋信濃守忠康の墓も。小田原北条氏滅亡後は徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続いたそうです。
板橋区立赤塚植物園は、さほど規模は大きくないものの高低差もあり、森閑とした雰囲気があります。
子どもたちに農業体験の場を提供する「農業園」では、伝統野菜の志村みの早生大根も栽培されていました。
住宅の間を上り下りの坂道を、北に向かいます。
荒川の低地にせり出すような高台の上が、都立赤塚公園の一部として整備されています。見下ろすと、かなりの高低差があることが分かります。
小さな青い実をつけている梅林を抜けると、広い平坦地に出ました。
ここが赤塚城の本丸跡です。標柱と説明板が設置されていました。
下総国の守護であった千葉氏は、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、康正二(1456)年には公方勢に市川城を奪われて赤塚城に本拠を移し、上杉方の庇護を受けるようになりました。
当主の千葉自胤は、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に従って石神井城(豊島氏)攻めなど各地を転戦しつつ、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
その後は関東に勢力を急拡大した小田原北条氏に従いましたが、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの時に滅亡し、赤塚城も廃されたそうです。
桜が見頃で、平日の昼間でしたが、家族連れやカップルなど数組が花見を楽しんでいました。
北に向かって急な坂道を下ります。下ったところには池があり、多くの人が釣り糸を垂れていました。
高島平方面に向かう方角は、首都高速5号線によって遮ぎられています。歩行者と自転車はコンクリートの急な坂を登り、自動車道の上の橋を渡り、今度は急坂を下ります。どうやら日本の交通体系は、自動車優先となっているようです。
桜並木の美しい高島平団地へ。
3丁目にある新高島平ファミリー名店街のなかに、地域交流広場ぱうぜがありました。
先日(3月19日(土))のECOM30周年ワークショップ)で、偶然同じテーブルとなった石田ゆかりさんの話を改めてお聞きしたいと、伺ったのです。
様々なイベントの案内。店内ではパンや野菜などの販売も。
地域づくりにかける思いなどについて、話を伺わせて頂きました。その最中にも、パンや野菜を求めて地元の方々が訪ねて来られます。高齢女性2人は常連さんのようで、石田さんとの会話が楽しみのようです。
結局、1時間以上も長居をしてしまいました。石田さん、お付き合い下さり有難うございました。お話の内容は、改めて紹介させて頂きます。
同じ高島平団地には、地域リビングプラスワンというスペースもあります。帰りに立ち寄ってみましたが、子ども食堂(おかえりごはん)の日で、活気がありました。
多くの場所で、様々な思いで、多様なかたちで地域づくりに取り組んでいる方がおられます。
これからも、色々な方を訪ねてみたいと思っています。