【ブログ】「肉食の読書」続き

元日の能登半島地震の発生から3週間。
 被災地では連日のように雪が降り、気温も下がるなか、現在も20名以上が行方不明、1万5千人が避難生活を強いられています。停電、断水も続いています。
 輪島塗の工房や酒蔵、白米千枚田、總持寺祖院、旧時国家なども大きな被害。豊かな歴史・風土に育まれた能登の文化の底力、回復力を信じたいと思います。

先週金曜日の職場近くの日比谷公園では、早くも梅がほころび始めていました。自宅近くでもはミツマタの蕾が膨らんでいるなど、春の足音が聞こえてくるようです。
 ところが気象庁のサイトを確認してみると、東京での梅の開花は平年より13日(!)も早いとのこと。他の観測地でも軒並み早くなっています。春の訪れの喜びどころか、昨年の猛暑・渇水の悪夢が再来するのではと怖くなりました。

 自宅近くに一画を借りている市民農園。「菌ちゃん畑」の野菜は、高齢夫妻二人では食べ切れないと思ったほどよくできたのですが、連日の鍋料理のお陰もあり、終わりが見えてきました。なかなか美味です。

さて、昨年末からのマイブーム、肉食に関連する本の読書は続いています(前回のブログはこちら)。

 前回のブログで紹介した赤坂憲雄『奴隷と家畜』で取り上げられていた内澤旬子『飼い喰い-三匹の豚とわたし』(2021)も読んでみました。世界のと畜場のルポもある著者が、ペットとの境界をあえて曖昧にするために名前を付けた三頭の豚を自ら飼い、固有のキャラクターを認めつつコミュニケーションしたうえで、と畜して食べるまでの体験記です。

最後近くの場面、多数の友人・知人を招いて盛大に開催した食事会で「本当に可愛かった」豚の肉を噛みしめた時、著者は奇妙な感覚をおぼえます。
 「彼らと戯れた時の、甘やかな気持ちがそのまま身体の中に沁み広がる。帰って来てくれた。三頭はこの世からいなくなったのではなく、私の中にちゃんといる。これからもずっと一緒だ。私が死ぬまで私の中にずっと一緒にいてくれる」
 また、畜産については、「動物の生と死と、自分の生が有機的に共存することに、私はある種の豊かさを感じるのだ。畜産の根本にあるこの豊かさを、食べる側の人たちにも、もっともっと実感してもらえたらいいのに」との記述もあります。

1月15日(月)のオンライン読書会の課題本は、小川糸『つるかめ助産院』でした。
 前半のおススメ本を紹介し合う時間で、私が『飼い喰い』と山脇史子『芝浦屠場千夜一夜』をおススメしたところ、主催者の一人であるNさんが「そういえば、『食堂かたつむり』(2010)にも、豚をと畜して食べる場面があったね」と発言。
 私はトンと忘れていたののですが、再読すると確かにありました(Nさんの記憶力、すごいな~)。

 癌で死期を悟った、ずっと不和だった母親が飼っていた豚を、と畜して料理してふるまうクライマックスの場面(ほんと、記憶力ないな~)。

と畜・解体するシーンでは、
 「エルメス(可愛がっていた豚の名前)の体を、血の一滴まで無駄にしたくなかった。ごめんね。でもこうなってしまったからには、世界一美味しい豚肉料理にしてあげるからね」

そして口に入れた時は
 「エルメスは決して死んでいないという確信で胸がいっぱいになった。エルメスが、今度は人間の体に入って、中からその人を元気づけてくれる。エルメスの命が、継承され、慈しまれる。エルメスが私の体の中で合体する」

『飼い喰い』と全く共通する感覚です。
 自ら飼い、目の前でと畜・解体された家畜の肉だからこその感覚かも知れません。

 この2冊によって、昨年末から感じていた「肉食」そのものにに対する違和感は、かなり緩和されたようです。
 その一方で、人間と家畜(動物)とのかかわりそのものについての興味が湧いてきました。

きっかけとなった1冊が、先ほどの読書会でNさんが紹介して下さったオリバー・サックスの『火星の人類学者』。『レナードの朝』で有名なイギリスの脳神経科医が、自閉症患者であると同時に優れた動物学者をインタビュー・取材した内容です。

 神話や人間のドラマには共感できないという動物学者は、「わたしは火星の人類学者のような気がする」と告白します。ところが彼女は家畜には深い愛情を抱いており、例えば、最期まで優しく扱われ、家畜の安心感を与えられるような、と畜場の設計にも携わっています。
 「と畜は自然界よりも人道的。苦痛を感じる前にと畜される」とも。

2024年1月17日(水)付け日本経済新聞夕刊の文化欄には、「人間の優越性への疑問-作家性の一部、他生物に託す」と題する論説が掲載されています。
 粘菌やビーバーと「共創」した作品は、アートさえ人間の専有物ではないことを示唆しており、人間中心主義からの脱却と、地球における共生のあり方を想像する契機になるとしています。

さて、人間と動物(家畜)とのかかわりについて興味深いのが、赤坂憲雄『性食考』(2017)です。これは先に紹介した『奴隷と家畜』より前に書かれたもので、食欲と性欲との相似性がメインテーマとなっていますが、「動物の肉を喰らうことの根源的な意味」についても考察されています。

 著者によると、かつて人間と動物の間にあった連帯感・一体感は、人間が肉食を始めたことによって亀裂が入り、その代わりに食べる/交わる/殺す、という複雑にからみ合う問題が浮かび上がったとのこと。
 例えば宮沢賢治の童話は、「人が他の生きものの“いのち”を奪い、その肉を食うことでしか己の命をつなぐことができないという、過酷で悲惨な現実と向かい合うもの」とりこと。他にも内外の多くの神話、民話、童話、文学作品等が取り上げられています。

 やや本筋からは外れるかもしれませんが、私が特に印象に残ったのは次の一節。
 「わたしのなかでは、どうやら獣と魚のあいだには見えない裂け目があるらしい。魚市場の魚を『うまそうだな』と感じることはありふれた体験だが、スーパーの肉売り場に並んだ細切れの肉の背景に対する想像力を、わたしは致命的なまでに喪失している」

やはり、お肉は、生産者や事業者の顔が最も見えにくい食材であることは間違いないようです。