【ほんのさわり322】袖井林二郎『マッカーサーの二千日』

-袖井林二郎『マッカーサーの二千日』(1976.9、中公文庫)-

【ポイント】
 戦後の深刻な食糧問題の様子と対応策が、占領者(「温情あふれる指導者」)の立場から描かれています。

著者は1932年宮城県生まれの政治学者で占領期研究の第一人者。丸木夫妻の「原爆の図」を米国で展示紹介する活動もされていましたが、本(2025)年2月、92歳で死去されました。
 本書は、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官・マッカーサーの人物像や政策を、本人の回想録や書簡、アメリカや日本の関係者の証言など膨大な記録から丹念に検証したもので、大宅壮一ノンフィクション賞等を受賞しています。
 マッカーサーは1945年8月に厚木基地に降り立ち、51年4月に離日するまでの約5年8か月の間、名実ともに日本の支配者として君臨しました。その間、新憲法の制定、東京裁判、朝鮮戦争等を経験する中で、彼は、現在まで続く戦後日本の「鋳型」を作り上げたのです。

戦後の食糧問題の深刻さも、本書から伺うことができます。
 マッカーサーが初めて天皇と会見したのは1945年9月27日。その時、天皇からは「自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ」という言葉が発せられたとのこと。マッカーサーは、その全ての責任を引き受けようとする勇気ある態度に深く感動したと、回想記に記しています。

 しかし、マッカーサーが着任した翌年の1946年は、戦災に加えて40年に一度という前年の大凶作により、日本の食糧事情は危機的な状況に追い込まれました。「一千万人餓死説」さえささやかれていたのです。5月19日には皇居前に25万人が集結し「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」が行われました。飢餓が、人々を行動に駆り立てる大きなエネルギーとなる様子が描かれています。
 翌日の夜、訪ねてきて窮状を訴える吉田茂首相に、マッカーサーは「自分が最高司令官である間は、日本人は一人も餓死させない」と約束し、輸入小麦の放出を許可します。街中で白いパンが配給されるようになると、人々は興奮して列を作り、「マッカーサー将軍が下さったんだ」と泣き出した老人や病人もいたそうです。
 戦後のアメリカの食糧援助については、国内の在庫のはけ口とすると同時に、日本人の食生活を洋風化するための国家的な戦略だったとする言説が広く流布されていますが、やや一面的なとらえ方かも知れません。

 1951年4月、朝鮮戦争をめぐる方針等でトルーマン大統領と対立したマッカーサーが解任されると、日本国民は「温情あふれる指導者」が突然奪われたという思いにとらわれたようです。朝日新聞は社説に「日本国民の最も残念に思うところ」と書き、集参両院は感謝決議を行いました。離日の日、羽田空港に向かう沿道には20数万人が見送り、バンザイの声が湧きあがったそうです。
 しかしその興奮もやがて日本人は忘却し、「永久国賓」や記念館建設の構想も立ち消えになりました。

 F.M.Letter-フード・マイレージ資料室 通信-pray for peace.
 No.322、2025年11月4日(火)[和暦 長月十五日]
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