2025年8月19日(火)。
自宅ベランダに置いたバケツ(プランタ)稲も、穂が出て花が咲き始めました。鉱物資源等の乏しい日本ですが、豊かな風土資源(気温、降水量)には恵まれています。今年は気温も雨も、ちょっと極端ですが。
知人が千葉・白井の梨を送って下さいました。ジューシーで美味です(ぶしゃー)。

21日(木)は、地元の東京・東村山市の中央公民館へ。
14時30分から「戦後80年特別公演 朗読劇『久米川に爆弾が落ちる』」が行われました。ポスターには定員30名とあったのですが、ホールには100名以上の観客。夏休みの子どもたちの姿も。
出演者は、新内で活動する朗読劇のサークル「ゼルコバ」です。
1945年4月2日未明、 空襲の直撃弾を受けて家族の大半を亡くしながら、一人の赤ん坊が奇跡的に生き残ったという実話をもとにした劇とのこと。赤ん坊はサチと名付けられました。
そして2025年夏。高齢になったサチが「一人生き残って申し訳ない」と嘆いているところに、亡くなった家族や村人たちが現れて「悲劇を伝えていくのがお前の役割だ」と諭します。サチは「東村山から世界に平和の決意を届けたい」と力強く宣言し、ステージにシャボン玉が舞いました。
劇には秋津、恩多、久米川など馴染みのある地名も多く出てきて、戦争は身近なものだったことが実感されました。素晴らしい熱演でした。

同じ中央公民館の展示スペースで開催されていた「核兵器廃絶と平和展」を見学。
ヒロシマ・ナガサキの原爆写真パネル、高校生たちによる「原爆の絵」、市民の戦争体験記や平和の絵手紙等が展示されています。ここにも多くの子どもたちの姿。

地元の母親グループの方たちによる「東村山平和マップ」も掲示されていました。
地元にも様々な戦争遺跡があることを改めて知り、いずれも近隣なので自転車で回ってみることに。

市民会館前の所沢街道を南下し、西武新宿線の工事中の高架をくぐって右折したところに小さな築山があります(本町1-13)。
説明板によると、幕府が開発を進める新田と地元の入会まぐさ場との境を示すために築かれた「境塚」とのこと。
1961年、その小山の上に平和の女神像が設置されました。
第二次世界大戦の戦死者・戦病死者の追悼と、再び戦争の惨禍が起こることがないよう恒久の平和を祈念して建てた像とのこと。周囲には夏草が茂っていました。
さらに府中街道を南下した八坂駅ガード横にあるのが、八坂延命地蔵尊です。
戦後、府中街道はアメリカ軍の物資輸送の幹線道路となっていましたが、ここで自転車に乗った小学生2人がアメリカ軍のトレーラーに轢かれたそうです。その菩提を弔うために、地元商店会の方たちによって1957年に建立されたそうです。
よく通る場場所で小さな祠があることは以前から認知していましたが、このような歴史があるとは知りませんでした。

府中街道を少し戻って左折、戦跡ではありませんが寄り道です。公団団地のなかの公園に一両の西武電車が鎮座していました。地元の方々によって運営されている久米川電車図書館です。
近くの集会所では「中高生が案内する鉄道の世界」と題するイベントが開催されていました。たくさんの子どもたちで賑わっていました。

再び府中街道に出てさらに北上、東村山駅前を左折してしばらく進むとふるさと歴史館(諏訪町1-6)に行き当たります。
「東村山と戦争」「戦争中の東村山を知ろう」というコーナーが設けられており、空襲や学童疎開に関連するパネル等が展示されていました。墜落したB29の模型も。

この日の最後の目的地は、平和観音像(秋津町1-4)です。
1945年4月2日未明に東村山が空襲を受けた時、1機のB29に高射砲弾が命中しこの地に墜落しました。麦畑には直径20mの穴が開き、搭乗員11名全員が死亡したそうです。
遺体は全生園(ハンセン病療養所)入所者たちによって埋葬されました。そして1960年、地主の方によって建立されたのがこの平和観音像です。

いずれの戦跡も、日常的に通っている場所です。
戦争とは過去の歴史上の出来事ではなく、間違いなくこの地に実際にあったことが実感でました。ふるさと歴史館で求めてきた資料等で、さらに学びたいと思っています。
注:本ブログの執筆には、新日本婦人の会「東村山平和マップ ガイドブック」(2025年8月10日)を参考にさせて頂きました。
(ご参考)
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