2021年秋の福島訪問(最終日、いわき市など)

2021年11月2日(火)は、福島訪問4日(最終日)。
 いわき湯本温泉の元禄彩雅宿・古滝屋さんで風呂を浴び、見た目も美しい豪華な朝食。次回はぜひ早めに予約して、夕食も頂きたいものです。

この日は特段の約束もなく、スケジュールも決めないまま9時頃に出発。
 まずは小名浜へ。著名な漁港であると同時に、火力発電所向け等の石炭輸入の拠点港でもあります。道路脇をどこまでもベルトコンベアが続いています。
 原発が廃炉となっても、首都圏へのエネルギー供給基地としての福島県の役割は変わりません。。

ら・ら・みゅう(観光物産センター)の2階では「いわきの東日本震災展」が開催されていました。
 映像や写真パネル、当時の新聞記事など。段ボールで仕切っただけの避難所のジオラマはリアルです。

車(レンタカー)があるので、せっかくなら公共交通機関では行きにくい所をと思い、国道6号線を30分ほど南下。
 そこから右折し山間いに入ったところに勿来の関跡がありました。

白河関、念珠ヶ関と並ぶ奥州三関のひとつで、蝦夷の南下を防ぐために設置された(来る勿れ=くることなかれ)関とされ、歌枕としても有名です。
 多くの歌碑。源義家の銅像も。

文学歴史館では、紀貫之や小野小町が詠んだ和歌が紹介されており、江戸時代の宿場町を復元したコーナーもあります。ちなみに蕎麦屋の屋台はプリクラ撮影機できます。
 田部君子の特設コーナーも。現在のいわき市出身、1944年に27歳で亡くなった薄命の歌人だそうです。初めて知りました。

 「生れきて十八年のわれのこの 清きほこりを高くかかぐる」
 女学校時代の作です。

さらに10分ほど南下して県境を越えると、ほどなく「天心遺跡」(北茨城市五浦)に到着。
 近代日本美術の発展に大きな功績を残した岡倉天心は、日本美術院をこの地に移転し、自らも移住しました。
 太平洋に突き出すように建てられた六角堂は東日本大震災の津波で流失しましたが、翌年に再建。記念館には、天心自ら設計したという釣り船「龍王丸」も展示されています。 

「亜細亜は一(ひとつ)なり」の碑も。
 太平洋戦争時には、海外侵略を正当化するフレーズとして悪用さられました。

 茨城県天心記念五浦美術館は敷地も展示室も広く、横山大観や菱田春草の名画をゆったりと鑑賞できました。
 広い窓からは、はるかに勿来火力発電所の巨大な建物が望まれます。

常磐道でいわき市へ。
 いわき湯本ICで降りて10分ほどで、願成寺・白水阿弥陀堂に到着。永暦元年(1160年)に建立された国宝建造物です。阿弥陀三尊像にご参拝。
 紅葉が色づき、浄土庭園の池と背景の山に映えています。

今回の旅行の最後の訪問地は、いわき市石炭・化石館 ほるる。大勢の研修旅行の生徒たちで賑やかです。
 前半の展示は、いわき市で化石が発見されたフタバサウルス・スズキイの巨大骨格模型や、古生生物の化石標本など。

 後半の展示は常磐炭礦について。今年は閉山50年に当たるとのこと。
 屋外の「六抗園」には、1947年に昭和天皇が行幸の際に入坑されたトロッコ(人車)や坑口が保存されています。
 御製碑や、トロッコに乗られた天皇のお写真も。

エレベータで地下600mにある模擬坑道へ(降りる雰囲気だけで、実は2階から1階に下りただけであることが後で分かりました)。

 エレベータの扉が開くと、そこは正に坑道。木枠が組まれ、初期から順番に採炭の様子がジオラマで再現されています。初期には男女ともに下着一枚で手で掘っていたのが、次第に大きな機械が使われるようになっていく様子が分かります。
 模擬坑道を出ると、復元された昭和10年頃の炭鉱住宅や共同炊事場の様子。

日本の近代化を支えた常磐炭礦は閉山されましたが、小名浜港で見たとおり、現在も大量の石炭が輸入され、火力発電所で発電された電力が関東圏にも送られています。

 気候危機が叫ばれるなかで石炭火力発電は「悪」とされ、日本は今年も「化石賞」を受賞。しかし、温室効果ガス排出量削減を偏重する世界の風潮には、危惧を覚えざるを得ません。
 再生可能エネルギーを最大限に導入するとはいえ、原子力発電所の再稼働は現実的に困難で、天然ガスは輸入に依存する化石燃料であることに変わりありません。
 石炭火力発電も技術発展により効率化が進んでおり、バランスの取れた電源構成を追求していく必要があると、私は思います。

16時過ぎ、いわき駅前でレンタカーを返却。慣れない4日間の運転でいささか疲れました。
 商業施設内のお寿司屋さんで早めの夕食(お昼抜きでした)。常磐ものの握りなど。

 17時21分発のひたち24号は空いています。
 地酒・又兵衛のワンカップとともに東京へ。結局、最終日も呑み過ぎ。