私にとって、東京・日比谷公園は職場至近にある昼休みのオアシス。図書文化館にもいつもお世話になっています。
東京・日比谷公園を見下ろすように、今年3月にオープンしたのが東京ミッドタウン日比谷… 続きを読む
-より豊かな未来の食のために-
私にとって、東京・日比谷公園は職場至近にある昼休みのオアシス。図書文化館にもいつもお世話になっています。
東京・日比谷公園を見下ろすように、今年3月にオープンしたのが東京ミッドタウン日比谷… 続きを読む
2018年9月11日(火)の終業後は、東京・京橋の中央区立環境情報センターへ。
交流を通じて農的社会の実現を目指す銀座農業コミュニティ塾… 続きを読む
-原田信男『コメを選んだ日本の歴史』(2006/5、文春新書)-
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166605057
1949年生まれの著者の専門は生活文化史で、食文化についても多くの著作があります。本書は、日本の歴史を通して、いかに米が大きな役割を果たしてきたかを明らかにしています。
弥生時代に渡ってきた水田稲作システムは、日本の人口や社会に大きなインパクトを与えました。
その生産力の高さにより社会的剰余を生み出すことで、クニ(古代国家)の形成が始まり、やがて激しくなった戦争(軍事力の背景にも米がありました。)を経て統一国家(ヤマト政権)が成立します。… 続きを読む
柏木智帆(かしわぎ・ちほ)さんは神奈川県の出身。新聞記者としてお米やお米文化についての取材活動を続けるうち、「これはただの農産物ではない」とお米に魅せられていきます。
ついに「現場を知らずに記事を書くのはもどかしい」と8年勤めた新聞社を脱サラ、千葉県の営農組合に転職されました。ここで米生産の作業を学び、翌年には「無謀にも」(本人談)独立、45アールの水田で機械も農薬も使わずに米生産に取り組みます。
また、中古車を改造して炊飯器を積載、おむすびの移動販売も始められます。しかしキッチンカーが故障で廃車になったこともあり、改めて「米の消費拡大のために自分だからできることをやっていこう」と考え、鍬を再びペンに持ち替えました。
現在はフリーランスの「お米ライター」として活躍中です。
お米を中心とした日本の食文化の再興、お米の消費拡大等をテーマに、新聞、雑誌、ネット、ラジオ等の媒体を通して、あるいはワークショップの講師等として、積極的に情報発信されています。… 続きを読む
前号では、日本における水稲収穫量の長期的な推移を紹介しました(リンク先の図104の橙色の折れ線)。
http://food-mileage.jp/wp-content/uploads/2018/08/104_kome.pdf
1933年頃までは収穫量は順調に増加しましたが、戦争の影響により伸び悩むようになり、終戦の年の1945年には一気に落ち込みました。戦後に入ると一転して増加しますが1967年にはピークを迎え、その後は生産調整が実施されるようになったこと等により右肩下がりで推移しています。
一方、日本の人口はこの間ほぼ一貫して(1945年を除いて)増加し、2009年には 1883年の … 続きを読む
◇フード・マイレージ資料室 通信 No.151◇
2018年9月10日(月)[和暦 葉月朔日]発行… 続きを読む
2018年9月8日(土)は埼玉・小川町へ。
この日は Ogawa Organic Fes… 続きを読む
四半世紀ぶりという強大台風が四国から関西を縦断した2018年9月4日(火)。
東京地方の雨はそれほどではありませんが、風が強く、帰宅時の西武新宿駅は入場制限で大混雑。
関西国際空港等に大きな被害をもたらしたた台風21号は、翌5日(水)には日本海に抜けて北上、温帯低気圧に。
その日の終業後は、東京・東新宿へ。
19時から開催されたのは、「サンゴバー」と題する少人数のイベント。… 続きを読む
2018年8月31日(金)の終業後は、東京・五反田のゲンロンカフェへ。
独特の熱気と猥雑さ(失礼)がある不思議なスペース。私は4月24日(火)のトークイベント(五十嵐泰正さん、小松理虔(りけん)さん、武田徹さん)以来です。
この日19時から開催されたのは、小松理虔さんの著書… 続きを読む
-藤原 彰『餓死(うえじに)した英霊たち』(ちくま学芸文庫、2018/07)-
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480098757/
1922年東京に生まれた著者は、陸軍士官学校を卒業して中国各地を転戦。復員後に東京大・文学部史学科に入学し、後に一橋大教授等を務められ、2003年に逝去されました。
太平洋戦争における日本軍人の戦没者は … 続きを読む
お米を買うのに「通帳」が必要な時代がありました。
「豆知識」欄でも紹介したとおり、戦争が拡大するなか、国内の農業生産が次第に停滞・減少し、同時に朝鮮等からの輸入も困難となったことから、日本は深刻な食糧不足に直面することとなりました。
このようななか、太平洋戦争の最中の1942(昭和17)年に制定されたのが食糧管理法(食管法)です。
これは、米、麦、イモ等の生産・流通・消費を国家一元的に管理することによって、食糧を国民が平等に入手できるようにすることを目的としたものでした。
生産者には公定価格による政府への売渡(供出)義務が課され、販売には許可制度が設けられました。そして、全国の消費者は、米穀通帳がなければ米を購入する(配給を受ける)ことができなくなったのです。… 続きを読む